昔の私は外資系でバリバリ働いていたのに――。大東めぐみさんは、夫の海外転勤にともない、退職を決断。夜中に涙が止まらないことがあったほどの失意を乗り越えて、今、起業コーチとして伝えたいこととは。

夢見た研究者の道を進んだが、労働環境は最悪

「振り返ってみると、会社員時代の経験“しか”生きていないんです」

「起業コーチ」という肩書で、はつらつと話す起業家・大東めぐみさんに、「会社員時代の経験で生きていることは?」と尋ねると、そんな答えが返ってきた。

ProjectF 代表取締役 大東めぐみさん
ProjectF 代表取締役 大東めぐみさん(写真=本人提供)

2014年から、働き方に悩む女性の起業支援事業をスタート、「女性に新しい働き方と生き方を」をテーマに女性のためのビジネススクール「ProjectF」を提供する大東さんだが、ここまでたどり着くまでには、紆余曲折の道のりがあった。

幼い頃、のどかな場所に住んでいたこともあり、大東さんの娯楽と言えば読書だった。もともと知的好奇心が旺盛だった彼女は、知らないことを本やマンガで調べて読み続けた。「当時からアハ体験(未知の物事に関する知覚関係を瞬間的に認識する事)をすることが好き」という子どもだった。

そんな大東さんの将来の方向性を決めたのが、小学生の時に読んだ『ゾウの時間 ネズミの時間――サイズの生物学』(本川達雄著)という本だ。動物はサイズが異なることで時間の流れる速さが違うと書かれたこの本に、知的好奇心がくすぐられ、「科学者になりたい」と思うようになった。

大学では薬学の道に進み、研究に没頭、博士課程まで進み、研究者の道を歩んでいた。

しかし、アカデミックの世界は好きでも、それに伴う実生活には不満があった。

「当時の研究室は“セブンイレブン”と言われていました」と大東さんは苦笑する。“セブンイレブン”とはコンビニのことではなく、午前7時に来て、午後11時に帰宅する生活を揶揄する言葉だ。研究室にいる間に見ているのは論文とマウスのみ。家には寝泊まりするだけで、男性たちの中には泊まり込む者もいた。ここにすべてをささげることは考えられない――そんな思いが頭をもたげていた。

反対を押し切って決めた一般企業への就職

そんな悩みを抱えていた2008年、大東さんにオランダへの交換留学というチャンスが舞い込んだ。日本で研究を続けることへの疑問を抱えたまま渡蘭した彼女に、オランダの人々の生き方は衝撃的だった。

まず、夜は午後6時には家に帰るのが当たり前。ワークライフバランスが定着しているオランダでは、家族の時間をみんなが大事にしているからだ。とはいえ、成果はきちんと出している。つまり、残業だらけでしか成果が出せない日本式の研究は、生産性が低いということになる。

この衝撃の体験が、大東さんの考えを変えた。日本に帰るやいなや、周囲の反対も押し切り、彼女は一般企業に就職することを決める。生産性の高い企業で仕事をしたいと考えて、プロクターアンドギャンブル(P&G)に行きつき、就職を決めた。

「君には残業するほどの仕事を与えていない」

期待通り、P&Gは生産性の高い会社であった。そして、徹底していた。

たとえば、大東さんが残業しようとすると、上司から「大東さんに残業するほどの仕事はないでしょう?」と叱られた。与えた仕事は時間内で終わるはずの量であり、それができないのであれば時間がかかっている部分のスキルを磨くためのトレーニングが必要なので、研修を受けなさいと上司は言うのだ。P&Gには各種のスキルトレーニングの研修がたくさんあり、申し込めば誰でも受けられる。

「仕事を終わらせる」ことだけが目的であれば、残業して時間を延ばせば済む。しかし、それでは生産性は上がらないというわけだ。なるべく早く終わらせることを徹底するためには、自分でそのためのスキルを必死に磨かなければならない。ワークライフバランスとは、地道な努力を伴う大変さがあることを痛感した。

異動直後に妊娠&夫の海外赴任が決まる

プライベートでは、入社2年目で大学の同級生と結婚していた。そして30歳のとき、国内にあるマーケティング部門へのオープンジョブポスティング(社内公募制度)に応募し、異動することになった。

ところが、その辞令直後に妊娠が発覚。異動先の上司との最初の面談で、妊娠報告をすることになった。これからどうしようかと上司と相談したわけだが、話はそこで終わらなかった。夫に香港転勤の辞令が下ったのだ。

出産は4月だったが、夫は5月から香港駐在となった。夫不在で産後の3カ月間を日本で過ごした後、大東さんも赤ちゃんとともに香港に渡ることにした。ここから、大東さんの「駐妻」生活がスタートする。

バリキャリから専業主婦へ

香港の生活はただただつらかった。当時は香港に知り合いもおらず、FacebookやLINEなどSNSで流れてくる楽しそうな日本の友人のタイムラインを見るたびに心がふさいだ。香港には商社などの駐妻がたくさん住んでいるエリアもあったのだが、メーカーであったため住まいは郊外で、現地の人しか住んでいないエリアだったことも、寂しさに拍車をかけた。そのうえ、気温の高さもあり、部屋に閉じこもってしまう生活が続いた。

そのため当初は、1年の育休期間が終われば、自分と赤ちゃんは日本に戻って、夫と別々に暮らすことも考えていた。しかし、子どもをかわいがる夫の姿を見て、心が揺らいだ。夫と離れ、日本で子どもを育てることも大変だろうという思いもあり、日本に戻った場合と香港に残った場合の損得を、自分で何度もシミュレーションした。

背中を押してくれたのは、堀江貴文さんだった。堀江さんの『ゼロ』という著書が好きで、メルマガを読んでいたのだが、日本に帰るかどうかという悩みをそのメルマガの窓口に送ってみたのだ。すると、堀江さんの返事は、「旦那が好きならついていくべき」だった。合理的な考え方をする印象のある堀江さんから「感情的」な回答が返ってきたことは意外だったが、これにより損得を超えた選択をすることに決めた。そして最終的には育休後に会社には戻らずに退社し、専業主婦として香港に残ることになった。

夜中、突然涙が止まらなくなる

とはいえ、専業主婦となってからは、気力を失ってしまった。「毎日スマホゲームばかりやっていた。何も考えなくてもできることだったから」と大東さんは苦笑する。知的好奇心の塊だった大東さんが、今振り返ってみても「一番私らしくない時期」だったそうだ。

そんな生活が1カ月続いたころ、夜中に突然涙が止まらなくなった。「私は今までバリバリと働いていたのに」――そんな思いが、心を蝕んでいった。

大東さんの精神状態が危うくなっていると気づいた夫が、「自分だけの時間を持てるよう、ヘルパーを雇おう」と救いの手を差し伸べた。

それから、1日3時間、ヘルパーが家に来るようになった。この3時間だけは、家族のことを一時忘れ、自由にできるようになった。気持ちを切り替えることができた大東さんは、次のキャリアになるビジネスの模索を始めることにした。すると、少しずつ前向きさを取り戻すことができたため、ヘルパーさんには住み込みで働いてもらうことに決めた。

300個のブログを立ち上げたが、売り上げは700円

しかし、会社員を辞めた自分にとって、異国の地で一体どんな働き方ができるのか全く分からなかった。ネイルサロンの受付をやってみたり、商品を仕入れてネットで販売してみたり、できそうなことは試してみたが、全くお金にならない。「自分には、お金を生み出す力がない」ことに気づき、大東さんは愕然とした。

そこで、大東さんは「自分がお金を生み出す場所」を探し始める。まず、インターネットで「主婦 副業」と検索し、アフィリエイト(成果報酬型のインターネット広告)という手段を見つけると、「バレンタイン」「ひな祭り」など異なるアフィリエイトのテーマを300個見つけ、それぞれのブログを立ち上げた。

手間暇はかかるが、これは市場調査の一環だと捉えていた。P&G時代に培った、ニーズを探るマーケティング思考は、こんなところで役に立った。

300も立ち上げたブログだったが、1カ月の売り上げはたったの700円。それでも、見えてくることがあった。300のテーマのうち、「赤ちゃんグッズ」のブログは他の記事よりも読まれていることに気づいたのだ。

アフィリエイトを徹底的に研究

赤ちゃんがテーマだったから読まれたわけではない、自身の体験にもとづいて確信を持った記事を書けたことが大きかった。そう気づいた大東さんは、アフィリエイトで稼ぐことを徹底的に研究。オンラインセミナーに通って、「これは」と思った人に弟子入りを申し出て、この“師匠”に文章の書き方を教えてもらった。そして、アフィリエイトで起業を果たすことができた。

順調に続けていく中で、いつしか一人で完結できる仕事ではなく、自分の体験を誰かに伝えたいと考え始めていた。そこで、アメーバブログなどのSNSで、自分の今までの苦労や体験を、収益を目的とせずに書き始めたところ、「私も今海外に1人です」といった“過去の自分”のような人たちが、大東さんのファンとなって集まるようになった。

次の道はいつも自分の中にある

そうして、2014年にオンラインでの個別コンサルティングを始めた。好評を博し、希望者が増えてきたことでオンラインセミナーや動画も取り入れた。また、2016年にオンライン起業塾「ProjectF」を立ち上げ、女性起業家のコーチとして支援する活動を開始した。日本に帰国したことで、オフラインでの講座も開くことができるようになった。

プロジェクトFのセミナーの様子
ProjectFのセミナーの様子(写真=本人提供)

今は業務委託でスタッフとして働いてくれているメンバーは、もともとは大東さんの生徒だった人も多い。いずれは組織化していくことも考えているが、自身がキャリアチェンジを繰り返してきたことから考えても、一人の人がずっと同じ仕事をして生きていくとは思えないという実感がある。

「今行っていることはあくまでも『プロジェクト』。これからもプロジェクトベースの働き方を進めていきたい。会社として大きくしていきたいのではなく、一人でも多くの人に自分らしい働き方ができることを伝えたい、そう思っています」と大東さんは言う。

一度はキャリアの道が見いだせず途方に暮れた彼女を救ったのは、自分自身の過去のキャリアだった。次の道はいつも自分の中に眠っているということを、大東さんの生き方は教えてくれている。