ディセンシアはポーラ・オルビス ホールディングスの社内ベンチャー第1号。山下慶子さんは、同社が敏感肌専門ブランドとしてデビューする前から派遣社員として携わり、入社11年目に代表取締役社長に就任。さまざまな働き方を経験してきた山下さんが、社長になって初めて得た「気づき」とは──。
撮影=小林 久井

何となく選んだ派遣先で仕事漬けに

前職で契約社員から正社員に登用されるも「絵を描くので辞めます」と退職し、派遣社員としての生き方を選択。山下さんは、その派遣社員から代表取締役社長まで11年で上り詰めた。だが、事業の成功は目指しても自身の昇格を目指したことは一度もなく、「キャリアに関しては戦略ゼロ」と笑う。

「マネジャーや部長になった時は、やることは変わらないのにいつの間にか役職がついていたという感じでした。でも、取締役や社長はやはり責任の重さが違います。そのポジションに育てられて、自分の役割を深く考えるようになりました」

20代後半、絵をライフワークにしようと決意して派遣社員の道へ。だが、絵ではなかなか芽が出ず、就職も考え始めた31歳の時、紹介された数社の中から「自宅に近い」という理由でポーラ・オルビス ホールディングスを選ぶ。当時、社内ベンチャー第1号として設立準備が進んでいたディセンシアに配属され、思いもよらなかった仕事漬けの日々が始まった。

メンバーは研究者を筆頭にほんの数人しかおらず、全員が新規事業の経験なし。起業のイロハも知らないまま、皆で数カ月後の営業開始を目指して必死に突き進んだという。複数の業務を抱えて超多忙だったが、山下さんは「新しいブランドを世に送り出す仕事に、それまでにない充実感を覚えた」と振り返る。

本当の試練は事業立ち上げ後にやってきた

やがて、派遣契約が切れると正社員に登用。その数カ月後にはディセンシアが営業を開始する。初出荷も無事に済ませ、新ブランドの立ち上げという面ではゴールを迎えることができた。しかし、ホッとしたのも束の間、本当の試練はここからだったという。

「実際にビジネスが動き出すと、担当業務はさらに増えました。自分の器が与えられた役割に追いつかず、無力さを思い知らされてばかりで……。自由にやらせてもらえた反面、ほめられることも少なく、『私の存在意義って何?』と自問自答し続けていました」

無名の新ブランドということもあって売り上げもなかなか伸びず、成功体験のない期間は4年以上も続いた。この間、過労性のうつ病と診断されたことも。退職を考えたこともあったが、「この事業を成功させた上で次を考えよう」と踏みとどまった。顧客に直接会って思いを聞きとるなど、敏感肌に真摯しんしに向き合うディセンシアの思想に強く共感していたからだった。

ようやく気持ちが上向いたのは35歳の時。CRM(既存顧客向けの販売促進)の専属担当になり、初めて顧客と密接にかかわる仕事につく。顧客分析の基づいて効果的なメッセージを発信する、論理的かつ創造的な業務で、この二面性が山下さんの性分にぴったりハマった。外部コンサルタントなどのサポーターにも恵まれ、それまで苦しさしかなかった仕事に、徐々に喜びが生まれ始めた。

山下さんら社員が顧客と会い、思いを伝え合うイベントは創業時からの伝統

「そのうちにお客様の数が増え、売り上げも上昇し始めたんです。お客様から感謝のお手紙をいただく機会もあり、私にもちょっとは存在意義があるのかなと思えるようになりました」

山下さんがCRMを担当して3年後、ディセンシアは初めて黒字化を達成。大きな成功体験と言えそうだが、「売り上げより敏感肌の方に真に寄り添えているかどうかが重要」と、ストイックな姿勢でさらに成長を目指す。そして40歳の時、「いつの間にか肩書がついて」CRM部門の部長に昇格した。

LIFE CHART

2つの心がけで支えられるリーダーへ

部長時代にはキャリア最大のピンチと転機を経験した。ある時、売り上げの約7割を占める人気シリーズのリニューアルを決断。よりよい商品にできると確信しての決断だったが、変化を望まない顧客にどうメリットを伝えればよいか、悩み抜いた。

伝え方を間違えれば大勢の顧客が離れてしまうかもしれない大ピンチ。たどり着いた答えは「変化を不安ではなく期待に変える」というものだった。山下さんは、サイト上でリニューアルまでのカウントダウンを行うとともに、既存顧客にはコンセプト冊子やトライアルセットなどをギフトとして送付。

山下さんのリーダーシップは、強みも弱みも社員との間で共有するところから始まる

制作物の構成や執筆も自ら手がけ、熱意を込めて魅力をPRし続けた。結果、想定以上の購買を獲得してリニューアルは大成功。作り手側の熱意とメッセージが正しい形でユーザーに伝わり、それが売り上げという結果につながる──。これこそCRMという仕事の醍醐味だいごみと言えるだろう。

もちろん、こうしたプロジェクトを成功させるにはチーム力も重要になる。山下さんは部下たちをどうまとめ、どうリーダーシップを発揮したのだろうか。

「管理職でいられたのは、優秀な部下たちのおかげなんです。私は面倒見のいい上司じゃなくて、しかも苦手な分野はとことんできないタイプ。でも、部下は私の強みも弱みもわかっていて、『これは私がやっておきますから山下さんはどんどん走って』と言ってくれた。本当に感謝しています」

部下に強みや弱みをわかってもらうには、まず自分をさらけ出す必要がある。そのためには普段のコミュニケーションが重要だ。社員に聞くと、山下さんは雑談の達人のようだ。部下が近くを通れば「お菓子あげる」「最近どうよ」と話しかけ、トイレで会えば「ちょっと聞いてよ」と悩みを愚痴る。そんな親しみやすい雰囲気に、社員は「身構えずに話せる」と口をそろえる。

加えて、経理や総務などの苦手分野は「苦手」と宣言して得意な人に任せるという。たくさん雑談をすること、できるふりをしないこと。この2つの心がけが、山下さんを“支えられるリーダー”にしているようだ。

失敗を経て「私がやらねば」を卒業

その親しみやすい雰囲気は、社長になった今も同じだ。事業ビジョンは熱くしっかり語りながらも、決して相手を身構えさせない。ただ、管理職から経営層へとポジションが変わったことで、リーダーとしての覚悟はより強いものになった。

「自分が最終責任者なのだという覚悟ができました。私の役割は会社を成長させること。たとえ反対意見があっても、結局は事業成長こそが社員やお客様の幸せにつながるはずだと思うようになりました。今は1人の声にとらわれすぎず、事業全体を俯瞰するように心がけています」

就任当時は気負いすぎて失敗もした。ディセンシアの世界観やビジョンを皆と共有したいと願うあまり、全社員の前で延々と抽象的な言葉を語り続けてしまったのだ。「皆からすれば、それはそれとして目先の仕事はどう進めればいいの、という感じだったみたいで(笑)」と山下さん。

その後に行われた従業員満足度調査で、「社長の言っていることがよくわからない」と書かれて大ショック。立ち上げから携わっているだけに、ブランドへの思い入れが強すぎたのかもしれない。もっと社員にとっての“現実”に寄り添う伝え方をすべきだったと反省したという。

以来、ディセンシアは自分一人のものではないと肝に銘じるようになった。次のフェーズは社員や顧客と一緒に皆でつくり上げていく体制、つまり「ブランドの民主化」を進めること。支えてくれる人がいるのだから、私が何とかしなきゃという思い込みは捨てて、もっと皆に任せてみよう──。そんな気づきを得て、今はフラットな気持ちで新事業に取り組んでいる。

「常に変化や挑戦を求める性分なので、こんなに長く勤めた会社は初めて。親も『10年以上も1つの会社にいるなんて奇跡だ』と笑っています。苦しい時期もありましたが、人に恵まれて乗り越えてこられました。今後も新シリーズの展開などさまざまな挑戦をしながら、敏感肌の方々に当ブランドならではの価値を提供し続けたいと思います」

役員の素顔に迫るQ&A

Q 好きな言葉
自由
「自由にしていいよ、自由に考えてみて、という言葉にときめきます」

Q 趣味
土器・石器収集、古書収集、衝動旅行(朝起きて行き先を決める)

Q 愛読書
東京ミキサー計画―ハイレッド・センター直接行動の記録』赤瀬川 原平

Q Favorite Item
石とiPad
「収集したお気に入りの石をデスク周りに置いています。iPadは会議で出た内容をスケッチとして書き留めるのに必須」

撮影=小林 久井