2004年に弁護士の坪井節子さんが仲間とともに開設した「カリヨン子どもセンター」は、家庭に問題があって逃げ場がない子どもたちを救うシェルターだ。そこにたどりつく子どもたちの姿から見える教育虐待の実態とは――。

※本稿は、おおたとしまさ『ルポ 教育虐待』(ディスカヴァー携書)の一部を再編集したものです。

※写真はイメージです(写真=iStock.com/PRImageFactory)

シェルターにやってくる女の子たち

「カリヨン子どもセンター」にやってきたある女の子は、坪井さんに、「どうせ弁護士はたくさんお金もらっているんでしょ」と言った。坪井さんは笑いながら答えた。「何言ってるのよ。あなたたちのご飯代のために寄付を集めてくることで精いっぱい。私たちがもらえるわけないでしょ!」。

すると女の子はこう言った。「お金ももらってないのに、なんでこんな仕事しているの?」。坪井さんはまっすぐ少女の目を見て言った。「あなたの命が大事だから」。女の子は「うっそだ~!」と言いながら笑った。うれしそうだった。

子どもたちはしばしカリヨンで傷ついた羽を癒やし、巣立っていく。カリヨンに身を寄せるのは平均して約2カ月間だという。ちなみに2011年以降は、シェルターの運営に対し、厚生労働省から補助金が支払われるようになっている。

現在「子どもシェルター全国ネットワーク会議」に参加している団体は21。カリヨンのようなシェルターは全国で計14カ所稼働しているが、まだまだ足りない。シェルターにたどり着く子どもたちは児童虐待や不適切養育の被害者のごく一部。氷山の一角でしかない。

坪井さんは「カリヨン子どもセンター」に逃げてきた子どもたちのエピソードを教えてくれた。

Aさんは有名私立高校に通う成績優秀な高校3年生だった。世間一般的に見れば、いわゆる「いいところのお嬢さん」。なんでも親の言う通りにする典型的な“いい子”だった。

しかし家庭では、成績のことで罵声を浴びせられたり叩かれたりということが頻繁にあった。さらに志望大学をめぐって母親と意見が対立したところから、教育虐待が激化する。2時間以上罵声を浴びせられたり、座っている椅子を蹴られ床に倒れたところにさらに蹴りを入れられたりした。

Aさんは学校の先生に相談した。しかし先生もどうしていいかわからない。耐えられなくなったAさんは家出をする。するとあっという間に暴力団に声をかけられ、騙され、危険な状況に陥った。

かろうじて友人に電話をすることができて、救出された。しかし彼女は自宅に帰るのも危険だと判断する。福祉事務所に相談し、カリヨンに逃げてくることができた。

逃げられただけでも偉い

Bさんは開業医の父親から、「医者になれ」と命じられてきた。しかし高校3年生になったとき、薬剤師になりたい意思を父親に告げた。父親はそれを許さなかった。そこから父親による暴力が始まる。耐えられなくなって家出し、カリヨンに逃げ込んだ。

高校3年生にもなってなぜ親に言い返すことができないのか、不思議に感じるひとも多いだろう。しかし幼いころから常に「支配―被支配」の関係のもとで育てられた子どもには、逆らうという選択肢がないのだ。ある少女は親のことを「メデューサ」と称した。にらまれたら身動きがとれなくなる。

坪井さんは、カリヨンにやってきた子どもたちに、「逃げられただけでも偉い」と声をかける。(中略)

教育的指導と虐待の違いは何か?

「単に教育熱心な親たちに見えるかもしれません。でもこんなこと、まるで教育的指導ではありません。子どもを励まし伸ばす『教育』とは真逆の行為です。これをなんといえばいいのだろうと考えて、私たちの間では『教育虐待』というようになったのです」

どこまでがしつけや教育的指導で、どこからが教育虐待になるのか。

「ここまではよくて、ここからはダメというような程度問題では語れません。しつけや教育的指導とは、子どもの成長を促すために子どもを励ますことです。英語でいえばエンパワーメントです。しかし虐待は人権侵害です。まるで逆です。子どもは親のペットでもロボットでもブランド品でもありません。親の満足のため、もしくは親の不満のはけ口に子どもを利用することは人権侵害です。子どもをエンパワーメントしたいなら、子どもを一人の人間として敬意を払いながら指導すべきです。子どもを自分と同じ一人の人間なんだと思うことができているかどうか。それが教育的指導と虐待の違いだと思います。同じ言葉を発していてもそこが違えば、子どもが受けとるメッセージも違います」

ついカッとなってしまうときは……

「あなたはダメな人間」「あなたなんて生まれてこなければよかったのに」「あんたなんて死んだほうがまし」などという言葉は、明らかに子どもの尊厳を否定する言葉である。「罵声を浴びせることで奮起を狙う」という理屈は、親側の理屈でしかない。「親を必要としていて抵抗のできない子どもを傷つけておいて、何が『あなたのため』でしょうか」と坪井さんは憤る。

しかし実際に子育てをしていると、ついカッとなってひどいことを言ってしまうことはある。親になったからといっていきなり聖人君子になれるわけではない。

「つい子どもを叩いてしまっても、あとから『叩かなければよかった』と思えるようなら、それは親として間違ってしまっただけ。自分の過ちを認め次は間違えないようにしようと思えるなら、虐待にはいたりません。親だっていつでも正しい対応ができるわけではありませんが、だからといってあきらめてしまうのではなく、できるだけ正しい対応ができるように心がけるべきです。親も子どもも未熟だから、少しずつ成長していけばいい」(中略)

謝ることができない親たち

Cさんは有名進学校に通っていた。しかし、大学には進みたくないと考えていた。それで母親と意見が対立した。「大学に行かないのなら家を出て行きなさい」と言われ、カリヨンにやってきた。

おおたとしまさ『ルポ 教育虐待』(ディスカヴァー携書)

カリヨンでは、子どもを保護して落ち着いてきたら、子どもがどんな思いで生きてきたのかを、子ども担当弁護士やスタッフが慎重にヒアリングする。それを文書にまとめ、親に伝えることにしている。

すると大概の親は「子どもがそんなに苦しんでいたなんて知らなかった」と言ってショックを受ける。「でも、そういう親は、『ごめんなさい』が言えない」と坪井さん。代わりに「そういうつもりではなかった……私はこういうつもりだったんだ!」と自己弁護に入る傾向があるそうだ。

この母親も例外ではなかった。自分の考えを曲げず、「帰ってくるなら、私の言うことを聞きなさい」と言った。

Cさんはカリヨンにとどまる選択をした。そして「私は大学に行かない。社会に出る」と母親に伝えた。Eさんは自立援助ホームの支援を受け、働きながら通信制の大学に通っている。親のお金には頼らず、10年かかってでも大学を卒業するつもりである。

「この選択は見事だと思いました。親元に戻っていつまでも服従するよりも、気高く自分の道を歩むことを選んだのですから」

教育虐待に陥らないためのセルフチェック

教育虐待に陥らないために、親は自分自身に次のように問いかけてほしいと坪井さんは訴える。

(1)子どもは自分とは別の人間だと思えていますか?
(2)子どもの人生は子どもが選択するものだと認められていますか?
(3)子どもの人生を自分の人生と重ね合わせていないですか?
(4)子どものこと以外の自分の人生をもっていますか?

これができていないということは、親が子どもの人生に依存しているということ。「共依存から虐待は始まる」と坪井さんは指摘する。