※本稿は石井妙子『日本の天井 時代を変えた「第一号」の女たち』(角川書店)の一部を再編集したものです。
キャリアウーマンの星へ
昭和54(1979)年、「フランス展」の仕入れを任されることになり、石原はパリに出張した。すると、東京にいる部下から電話が入り、「株主総会で石原さんが、取締役になることが決まったようで大騒ぎになっています」と告げられた。
空港に帰り着くと石原は、取材陣に取り囲まれた。確かに石原は入社した時から、役員になることを目指してきた。だが、いざなってみると実感が湧かなかった。女性初の快挙であると、社内以上に世間がうち騒いだ。
「私は仕事が好きで誰よりも一生懸命働き、結果を残した。だから順当に出世していった。それだけのことだけれど、こういった当たり前のことがニュースになるほどだったんです。当時の日本は。私は確かに働く女としてはトップランナーだった。だから、先頭にいる者の責任も感じていた」
昭和54年5月24日、取締役広報担当室長に就任。54歳だった。女性初の次長、部長、支店次長を経験し、ついに取締役へ。以前からある役員ポストにつけるのではなく、それまでになかった広報担当というポストを新設して、その初代役員に石原をあてる恰好だった。
高島屋が創立されて以来、初の女性役員であるばかりでなく、一部上場されている日本企業全体を見渡しても、女性が一社員として入社し、重役になった初めての事例であり、石原のもとには取材が殺到した。「キャリアウーマンの星」としていっそう、注目され、華やかな話題を振りまいた。一方、社内には、女の役員誕生を苦々しく思う男たちが、少なからずいた。
男性と対等に付き合うため、ゴルフを始める
役員になった石原は、これまで以上に男性の心理を知る必要があると考え、男性たちと対等に付き合えるようにとゴルフを始めた。男社会の中に、仲間として受け入れられることが大事だと思ったからだ。また、この頃、アメリカでキャリアウーマンの指南書としてベストセラーになった話題作の編訳を石原は手がけた。『男のように考え レディのようにふるまい 犬のごとく働け』(石原一子編訳 デレク・A・ニュートン)だ。
「原書を一読して、『ああ、私が会社に入った頃に、こういう本を読んでいれば苦労をしないで済んだのに』と思った。男のように考え、とは男のほうが判断力はある、という意味ではないのよ。男社会である以上、男の考え方というのを知っておいたほうがいい、という意味合いで使われた言葉。
確かにアメリカでも日本でも、企業社会では男性がルールを決め、男性がスコアをつける。そのルールや基準をわかっていないと、うまくやっていけない。ルールを知っているのと、知らないのとでは大違いです。私は男だけの社会に入って試行錯誤の連続だった。男の上司のものの考え方がわからなかったし、あと、男の社員同士の独特の紐帯も理解できないで、ずいぶんと回り道をした」
男社会を甘く見ていた
石原は、おそまきながら、そういった男社会の仕組みやルールを、本やゴルフを通じて学ぼうとしたのだった。だが、それらはやはり特効薬にはならなかった。
「私なりに男を、男社会を理解したいと思ったし、できたつもりでいたけれど、やはり私は甘かったんだと思う。男たちがどれだけ出世というものにこだわり、血道を上げる生き物か把握しきれていなかった。男は女が考える以上に、出世するためには手段を選ばない。私の想像を超えていたのよね。足の引っ張り合いですよ。自分も渦中に身を置くようになって、男社会って醜いなって、つくづく思った。
日本は役職にいる人が実力を発揮していない場合が多い。何もしようとしないのよ。実力を発揮した結果として、役職を得るならいいけれど、仕事に対する熱い思いや行動はまったくなくて、ただ役職への執着だけが肥大化している、という人がとても多い。能力のある人が足を引っ張られて、凡庸な人が役職に就いたりもする。そういう人は役職に就くと、もう何もしない。ただ役得を享受するだけ。それで組織もダメになる」
「欲しいと思った幸せには全部、手を伸ばせばいい」
石原は市民運動のほか、米寿を過ぎても消費生活アドバイザー関連の仕事や広告会社の企画編集に携わった。長男夫婦とともに暮らし、孫にも恵まれた現在、人生を振り返って何を思うのかを最後に聞いた。
「やっぱり、人間は自分の思う道に進んで、やりたいことをやりきらなくては後悔が残ると思う。諦めることは簡単ですよ。若い人には諦めないで済む方法を考えて、思うように進んでいって欲しい。我慢なんてしないでいいし、欲しいと思った幸せには全部、手を伸ばせばいい。私はそうやってきた」
特別な才能があったわけじゃないという。ただ、大陸で育ち、前向きな姿勢が身に付いていた。世間の価値観に合わせるのではなく、常に自分と向き合い、自分にとっての幸せを追求し続けた。楽天的だったし、「私がやらねば誰がやる」の精神で、ブルドーザーのように道を切り拓いた。そのために周囲から誤解され、軋轢を生んだこともあったが、後悔することは何もない、と、きっぱり言う。
一生働き続けると誓った日
敗戦の日に、絶対に一生、働き続けると誓った。その誓いは果たせたと感じている。後輩女性に道を残せたという自負もある。
「なぜ、働くことにこだわったか。それは、経済力をつけることがとても大事だと思ったから。でも、それは、お金に固執する、ということではないのよ。自分で納得のいく仕事をして、生きているという手ごたえを掴みたかったの。
組織の中にいて、給料をもらえればいい、というような働き方は良くない。仕事の醍醐味は、やっぱり自分で掴み取るものだし、積み重ねで重要なポストに就くに従い、面白味が増していく。だから容易に辞めたり、中断しないほうがいい。働く女性に対する偏見が強かった時代に、血の滲むような努力をした先輩たちがいたことを知っておいて欲しい。日本社会は男女平等でなかったから女性が伸びなかった。でも、逆にだからといって女性をやたらと役職に就ける必要もない。まず実力があることが大事よ。
じゃあ、どうやって実力をつけさせるか。どういう過程が必要なのか。それを真剣に考えて欲しい。女性にもまだ甘えがある。周囲に依存しようとするし、自分で考えようとしない。日本の経営者は失敗を怖れるけれど、それでは企業は沈没する。男女ともに社員がもっと自立した考えを持ち、それをぶつけあわないと」
「女性の活躍」という言葉を自民党の総裁が主張する時代になった。女性を働かせまいとした時代を考えれば、社会は大きく変化したのだろうか。だが、石原は「状況はあまり変わっていない」と見ているという。
「女性が輝く社会、なんて言っていますけれど、そんなの嘘でしょ。だって、まだ全然、輝いていないじゃないの。結局、男の人は怖いんじゃないのかな。女が思う存分本音を言って、本気で働いたら、自分たちの居場所がなくなってしまうから。
力のある女の人がきちんと評価されてピックアップされることで、社会全体が伸びていくのが理想だと私は思う。実力のない女をポストに就けたりすると、結局、その人が潰れるし周囲が混乱するだけ。まあ、バカな男が権力を持つより、バカな女のほうがまだいいかしら」
そう言うと、石原は豪快に笑った。
働くことは生きること。石原は「ライフ」を純粋に追い求めた女性なのだろう。
ノンフィクション作家
1969年、神奈川県生まれ。白百合女子大学卒、同大学大学院修士課程修了。2006年に『おそめ 伝説の銀座マダム』(洋泉社、09年新潮文庫)を刊行。綿密な取材に基づき、一世を風靡した銀座マダムの生涯を浮き彫りにした同書は高い評価を受け、新潮ドキュメント賞、講談社ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞の最終候補作となった。16年、『原節子の真実』(新潮社、19年新潮文庫)で第15回新潮ドキュメント賞を受賞。19年、「小池百合子『虚飾の履歴書』」(『文藝春秋』2018年7月号)で第25回編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞を受賞。著書に『日本の血脈』(文春文庫)、『満映とわたし』(岸富美子との共著・文藝春秋)などがある。