有名無実化しがちな制度に“当事者目線”を取り入れて改善。在宅勤務は毎月500人が活用。男性の育休取得率もおよそ4倍に。
被災地の日本酒とおつまみを購入して支援する「復興BAR」。発案者は、社内ボランティアネットワークの参加メンバー。年齢、性別、所属の異なる社員たちが集い、交流を深めるのも目的だ。

社内のネットワークを縦横に活用し、ボトムアップの改革を推進

東京・九段下に本社オフィスを構える製薬会社MSD。17時30分を過ぎると、仕事を終えた社員たちがカフェテリアに集まってきた。配膳カウンターでは、ボランティアの社員が入場者のコップに日本酒を注ぎ、手渡していく。この日開かれていたのは、「復興BAR」というイベント。社内のボランティアネットワークとカルチャーアンバサダーが企画・運営しているという。

「たまにはこのように、大人数で楽しくコミュニケーションするのもいいですね」と話すのは、ヤニー・ウェストハイゼン社長。

(左)代表取締役社長 ヤニー・ウェストハイゼンさん(右)取締役執行役員 人事部門統括 兼 人事部門長 太田直樹さん

万有製薬と米シェリング・プラウ社が統合し、2010年10月に誕生したMSDは、世界140カ国以上で事業展開するアメリカの製薬会社、メルクの日本法人にあたる。医薬品とワクチンの開発力に定評があるが、ここ数年の日本の医薬品業界を取り巻く環境は、けっして楽観できるものではない。

「18年は大幅な薬価改定がありました。そんな中で、成果を出し続け、患者さんに貢献していくためには、イノベーションが生まれやすい風土をつくっていく必要があります。社員一人一人が“自分たちの会社だ”という当事者意識を持って仕事に取り組んでほしいと思っています」

働き方改革も、トップダウンで強制的に進めるのではなく、社員が自らコミットし、自分たちの手で変えていくことが推奨されている。その土台づくりに一役買っているのが、「理由を問わず、日数制限なく取得できる」在宅勤務制度だ。

「今は毎月約500人の社員が在宅勤務制度を利用しています」と執行役員兼人事部門長の太田直樹さんが説明する。

「週1日までの在宅勤務は09年から認められていたのですが、16年4月からは週に何日でも取得できるよう制度を拡大しました。管理職を中心に利用を促したら、利用者が急増しました」

グローバル研究開発本部の木下潔さん(入社17年目)は現在、週2~3日を在宅勤務にしている。集中して取り組みたい論文執筆や、時差のある本国(アメリカの親会社)とのやりとりは、ほとんど自宅で行う。

「自宅が茨城県なので、在宅勤務にするだけで往復約180分の通勤時間が浮くんです。使える時間が増えて、1日24時間が26~27時間になった感覚です。家だと快適すぎて、つい長時間没頭してしまうので、夕方に犬の散歩をした後は、家族と過ごすようにしています」

自己実現にもつながる、社内ネットワーク

11年以降は、以前から興味があった社内ボランティア活動に積極的に参加している。冒頭で紹介した「復興BAR」は、木下さんがリーダーを務めるボランティアネットワークの発案。東北エリア担当のMR(医薬情報担当者)から、「被災した岩手県の海岸清掃を手伝ってほしい」と頼まれたのをきっかけに、おもに被災地支援に取り組んできたという。

(左)グローバル研究開発本部 薬事領域 非臨床開発部 非臨床担当マネージャー 木下 潔さん(右)流通本部 北関東・甲信越流通営業部 ホールセラーシニアスペシャリスト 玉井さくらさん

「第三者を巻き込みながら、ひとつの志を完遂する達成感がボランティアの醍醐味(だいごみ)です。普段は接点がない他部署の人との共同作業も刺激的で楽しい。19年は、西日本の被災地に向けた活動も広げていきたいです」

15年4月にスタートした「カルチャーアンバサダー」というネットワークも、多くの社員から注目を集めている。各部門から代表者が参加し、「より強い会社、良い職場」づくりを目指す活動を行う。

それを知って、流通本部で働く玉井さくらさん(入社12年目)はすぐに応募を決めた。

「全社員が実践でき、社風をよくする方法は?」

全国から集まったメンバーがアイデアを持ち寄り、長時間かけてディスカッションしたり、育休や有休の取得率を上げる啓発運動に、試行錯誤しながら取り組んだ。

「女性の育休取得者はほぼ100%なのに、男性は1割未満しかいない。当事者にヒアリングしてみたら、男性が育休を取れるという事実を、ほとんどが知らなかったんです」

だが、知っていても取らない男性もいる。その理由を調べたところ多く挙がったのは、「周囲に男性の育休取得者がいない」「同僚や得意先に迷惑がかかりそうだ」という声。

前者については、全国の事業所にポスターを貼ったり、人事制度や育休取得者の体験談を紹介するウェブ会議を行った。

「実際に育休を取るとどうなるのか、体験者のリアルな話はやはり効果があったと思います。参加者も多く、手ごたえを感じました」

一番きつかったのは、出産直後の25日間

とくに、15年12月から試験導入されていた制度には大きな反響があった。新潟の事業所で働く男性MRから人事部に、「育休は取りたいけれど、得意先の対応ができないのは困る」と相談があり、上司が必要と判断した業務に限り、育休中の臨時就業が許可されていたのだ。

経営戦略・コマーシャルエクセレンス部門 顧客エンゲージメント プロジェクト・マネージャー 梅田真史さん

マーケティング部門で働く梅田真史(まさふみ)さん(入社12年目)もこの制度を知り、三男が生まれたとき、有給休暇と育休を合わせて3カ月の休暇を申請した。

「長男がママにべったりで、僕に対してそっけなかったんですよ。だから次にチャンスがあれば絶対に育休を取りたいと思ってました。想像していた以上に大変でしたが……」

一番きつかったのは、すべての家事・育児を引き受けた出産直後の25日間だった。だが、妻の体調が戻ってからも、家事のやり方にダメ出しをされて何度も落ち込んだという。

「『あとでやるから置いておいて』と言っても、『今やらないなら私がやる!』と言われてしまう。からあげを揚げている5分の間、息抜きのビールを飲んでいたら、『その間に次のおかずを作れるよね』。ほめてもらえないのはつらかったですが、こんなわずかな時間も無駄にせず、家事・育児を回している妻はすごい、と尊敬しました」

上司の承認を得て、2カ月目以降は週1回テレビ会議に参加したり、資料作りもしていたが、3カ月間ずっと家にいたことで、家族とは何か、仕事とは何かを真剣に考えることができたと梅田さんは言う。

育休終了後も、夜の皿洗いと洗濯は継続し、さらに週1回は16時半に帰り、10日に1回は在宅勤務をして、家事と育児を支えている。

15年に9%だった男性の育休取得率は、17年には33.3%と4倍近くに増加。育休中の臨時勤務制度は17年10月から正式に制度化された。

転職して半年で妊娠。役員たちの反応は……

抗がん剤領域のマーケティング部門で働く大西裕絵(ひろえ)さん(入社2年目)は、前職が中央省庁という異色の経歴の持ち主だ。

オンコロジービジネスユニット 乳腺・婦人科マーケティング プロダクトマネージャー 大西裕絵さん

「国会対応などの、突発的な業務が発生したり、深夜まで議論や調整が続くこともあったので、子どもを育てながら続けるのは負担が大きいと感じていました。そこで学生時代に専攻していた薬学に関わる製薬業界に挑戦してみようと思ったんです。私は第1子ができた後にアメリカにMBA留学したのですが、育児をしながら活躍する女性を見て、外資のほうが子どものいる社員に理解があるかな、という期待もありました」

MSDに来てよかったと痛感したのは、入社半年で第2子の妊娠がわかったときだ。

「転職してから日が浅いこともあり、さすがに怒られるだろうと、びくびくしながら役員室に行ったんです。ところが、『それはめでたい』と全面的に祝福していただいて。その後、懐妊中にオファーを受けて執行役員に就任された女性もいると聞いて、すごく励まされました」

2年目に産休・育休を6カ月取得し、復帰後に部署が変わったが、これは入社時の希望に沿った異動で、育休取得とは無関係。「出産したらキャリアをあきらめる」というカルチャーはここにはない。

「裁量労働制が浸透しているので、保育園のお迎えに間に合うよう仕事を終えて、ほぼ毎日、家で夕食を作っています。あとは月2回ほど在宅勤務をして、プライベートと両立しています」

17年にパイロット導入された「Sempaiプログラム」というユニークな制度もある。「自分の経験を後輩のために役立てたい」という社員が「Sempai」として登録し、プロフィールを公開。それを見て、「この人の話を聞きたい」と思った社員が自由にアプローチできる。

「チャンスが来たら、迷わずつかむべき」

浅野英利子さん(入社18年目)は入社以来、MRとしてキャリアを積んできたが、将来の進路がイメージできず、漠然とした不安を抱えていた。

(左)メディカルアフェアーズ メディカルリサーチプロジェクトマネジメント メディカルリサーチ第1グループ マネージャー 太田由加里さん(右)ワクチンビジネスユニット ワクチン・小児領域第2営業部 東海第1営業所長 浅野英利子さん

「そんなとき、Sempaiリストを見ていたら、新入社員のときに研修を担当してくれた方がいたんです。本社の仕事にも興味があったので、ぜひお話を聞いてみたいなって」

浅野さんからのアプローチを受けたのは、臨床研究の企画・実施を担当する太田由加里さん(入社31年目)。初回の面談では、お互いの仕事を紹介しあって終わったが、2度目に会ったとき、「営業で管理職を目指したら?」と言われた浅野さんは、「まだ私には早いのでは」と言葉を濁す。それを聞いた太田さんは、思わず声をあげた。「チャンスが来たら、迷わずつかむべき!」

「Sempaiリストに登録したときは、私自身も管理職になって3カ月目。浅野さんの不安はよくわかりました。でも、最初は大変だと感じても、そのうち見える景色が変わって、面白くなってくるからと伝えました」

それから約10カ月後、「ワクチン領域を扱う名古屋の営業所で所長をやらないか」という打診が来た。

「ワクチン領域には詳しくないし、私に務まるのかと一瞬迷いました。でも、太田さんの言葉を思い出して挑戦することにしました」(浅野さん)

18年1月に営業所長に就任。現在は8人のメンバー(男性5、女性3)をまとめている。

「所長になって、太田さんが言っていた“景色が変わる”の意味がわかりました。MR時代は自分の数字しか見えていなかったのですが、今は営業所全体の数字と、メンバーとのコミュニケーションを意識する日々。マネジメントは難しいけれど、MRとは違う面白さがあります。あの時、背中を押してもらって感謝しています」

これまでに「Sempaiプログラム」を利用した社員は177人にのぼる。

約3500人の社員に多彩なネットワークが提供され、自己実現、キャリア形成、成長の機会をいつでも手にできる。この環境がある限り、MSDでは今後もユニークな改革や制度が生み出されていくだろう。