※2010年度に農林水産省が制定した料理人顕彰制度。樋口さんの受賞は三重県初、女性初だった。
2016年「G7伊勢志摩サミット」のディナーを担当
英虞湾(あごわん)の水面が太陽の光を受け、眩(まぶ)しいほどに輝いている。真珠の養殖筏(いかだ)が並び、いくつかの島を望む湾の風光明媚(めいび)な風景――。
賢島(かしこじま)で随一の眺望を誇る志摩観光ホテル。ここで総料理長を務める樋口宏江さんは、13時頃、ディナーの下ごしらえを終えて休憩に入ると、厨房(ちゅうぼう)の裏手のエレベーターでホテルの庭へと降りる。向かうのは数年前に彼女の要望でつくられた温室。食後のお茶に使うハーブを摘むためである。レモンバーベナやパイナップルセージ、マジョラムなどをボウルに入れると、温室脇に植えてあるレモンの実と何枚かの葉を収穫した。
「レモンの葉は飾り用です。お皿の上に季節感を出したいので」
季節感は、最も大切にしている自身の持ち味だ。4年前に彼女を総料理長に指名した先代の総料理長・宮崎英男さんは言う。
「彼女は野菜を使った四季の表現がうまい。入社当時から夜遅くまで1人残って、料理への熱意もありました。彼女ならホテルの精神を受け継げると思いました」
料理学校を卒業した彼女は1991年、志摩観光ホテルに入社した。三重県出身で地元ということもあり、このホテルで働きたいという思いがあった。当時の総料理長は「アワビステーキ」や「伊勢海老(えび)クリームスープ」など、志摩観光ホテルの看板メニュー「海の幸フランス料理」を発案し、現在の料理とサービスの基本をつくり上げた人物だ。新人の頃につくったまかないのサラダをほめてもらったときは、飛び上がるほどうれしかったものだ。
23歳の若さでレストラン「アルカサル」の料理長に抜てき
「先々代がいた厨房は、いい意味で、ピリピリしていました」と彼女は懐かしそうに話す。新人の頃は料理の技術よりも、料理人としての作法を叩きこまれた。厨房はきれいに保つこと。調理道具は常に真っすぐにそろえて置くこと。
「いま自分が総料理長になって思うのは、緊張感がいかに大切かということです。仲良しチームもいいけれど、締めるところは締めなければ。おいしい料理はきれいな仕事場から生まれるんです」
以前の彼女は前述の通り、1人で厨房に残り、夜遅くまで料理を研究し、調理の練習をしていることが多かった。同ホテルの和食「浜木綿(はまゆう)」の料理長も、樋口さんの印象をこう語る。
「私が他のホテルにいた頃から、彼女は繊細さが感じられる料理で知られていました。志摩に来て印象的だったのは、いつでも若いシェフと笑顔で会話をして、彼らと厨房を動き回っていたことです。日本料理からも技術を吸収しようという意欲が強く、食材の扱い方などを聞かれることも多いです」
彼女が23歳という若さで志摩スペイン村のレストラン「アルカサル」の料理長に抜てきされたのも、そうした勤勉さや熱意が評価されたからだった。
「男職場なので、当時は『なんで女に指示されなきゃいけないんだ』と思っていた同僚もいたかもしれません。とくに先輩は、昨日まで『おい、樋口』と呼んでいたのを『樋口さん』と呼ぶことになりますし(笑)。最初はやりにくいこともありましたが、きちんとお願いをしながら、言いたいことは言うようにしてきました」
もう1つの大きな転機は、結婚し、長男を出産したことだった。
「同じアパートの知人が声をかけてくれて、子どもを預かってくれたのは本当に助かりました。それでも、夜にどうしても職場へ行かなければならないときもあって。さびしがっているんじゃないかと、見送る息子を振り返れない時期もありました」
そんな樋口さんの思いを汲(く)んで、夫は家事・育児を全面的に支えてくれたという。
「周囲の人の助けがなければ、私はこの仕事を続けられなかったかもしれません。とくに夫には、感謝の言葉しかありません」
そう語るとき、彼女は思わず涙ぐむのだった。
地場の食材を使って、新しい世界をつくる
総料理長としてホテル全体の料理を統括するようになり、樋口さんには明確な目標ができた。歴代の総料理長から受け継いだ伝統を守ると同時に、自分らしい料理を提案していくことだ。
志摩観光ホテルには「昔食べたあの料理を」と、伝統の味を期待して訪れる常連客も多い。新しいメニューを出して「いらない」と言われたことも、1度や2度ではなかった。
それでも新たな挑戦を続けたい、と樋口さんは言う。2016年の伊勢志摩サミットで料理を担当したとき、地場に未知の食材があることを知り、「これで新しい一皿をつくりたい」という思いがあふれた。
「アワビや伊勢海老の伝統的なレシピは守りつつ、地場の食材に光を当て、いかに自分らしい料理を表現していくかを模索したいんです」
そのためにはまだまだ時間が必要だという思いがある一方、「だからこそ」と彼女は語った。
「10年続けてようやく、私の新しいメニューを楽しみにしてくださるお客さまが増えてきました。それを励みにしながら、もっともっと三重の豊かな食材の魅力を表現していきたい。ホテルの味を受け継ぐ人材を育てつつ、常に新しい挑戦をしていく。それが私の役割だと思っています」
▼樋口さんの1日のスケジュール
(7:00)起床 家事(掃除・夕食の仕込みなど)
(10:00)ミーティング
(11:00)食材のチェック、キッチンミーティング
(12:00)ランチの調理、会議・打ち合わせ、仕込み作業など
(14:00)発注、メニュー作成、仕込み作業など
(15:30~16:00)昼食
(16:30)1度自宅に戻り、買い物や夕食の準備
(17:30~)オーダーに対応
(22:00)新メニューの試作、メールチェックほか
(23:30)帰宅、食事・入浴・朝食の準備、くつろぎ
(2:00)就寝