「窓とドアにお湯をかけるのが、一日の始まり」
JR東海の「山梨リニア実験線」(山梨県都留市付近)は、リニアモーターカー開発のため、同社が約20年前に運用を開始した試験場だ。
10月下旬、山々が色づき始め、短い秋が過ぎる頃になると、この辺りの気温はぐっと下がる。
荒木和美さんが初めてこの地にやってきたのは5年前。日を追うごとに寒さが増す冬の朝は、通勤に欠かせない赤いローバー・ミニのフロントガラスがいつも凍り付いてしまった。
「窓とドアにお湯をかけるのが、一日の始まりでした」
そう言って少し懐かしそうに笑う彼女はこの季節、社宅から職場へ向かうとき、「いよいよ冬が始まるなァ」と思うのだった。
大学院では電気工学を学び、主にガスタービンについて研究
超電導リニアの開発とメンテナンスを行う荒木さんの職場は、実験線に隣接する山梨実験センター。JR東海でリニアの走行試験に携わる技術系の社員186人がここで働いている。2013年に実験線の延伸が完了し、総延長は42.8kmになった。
「最初に赴任したときは、実験線での走行試験準備を2年間担当し、以後はリニアのコア技術である超電導磁石の開発チームに配属されて、品川の本社で3年。17年7月にまた実験線に配属されたんです」
部署にいる女性は荒木さん1人だが、「男性ばかりの環境は学生時代から」で、さほど気にしていないという。大学院では電気工学を学び、主にガスタービンについて研究していた。「交通システムやインフラの仕事に携わりたい」と考えたのが、JR東海の面接を受けたきっかけだった。
同社の技術系社員は、入社後1~2年間は、車両基地や工場で経験を積むのが一般的だ。車両工場では3年に1度、新幹線車両のオーバーホールがあり、車両を完全に分解して一から組み立て直す。そうした経験が、後に携わる設計の仕事に活かされていく。
荒木さんも、入社後すぐ浜松工場に配属され、新幹線車両の整備・メンテナンスを担った。「実際にお金を払って乗る新幹線に、自分の触った車両が使われていることを肌で感じた」と振り返る。
「たとえば、大阪の実家へ帰郷するとき、テーブルや座席を見ると、『あ、ここは私が直した場所だ』とすぐにわかります。工場には女性社員がほとんどいなかったので、最初は不安もありました。でも、そのとき職人肌のベテランの方たちに仕事を教わったことは、大きな経験になりました」
安全を保持する意識を、たたき込まれた
車両工場の整備担当者は、すべての工具を輪郭線上に置く「姿置き」で管理する。1つでもなくなれば車両は工場を出られず、見つかるまで探し出すことになる。
リニア車両の整備では、工具類の管理はさらに厳重だ。強力な磁力で工具が超電導磁石についてしまい、そのまま走行すれば大事故につながる危険性があるからだ。
「この会社の根底にある、安全に対する意識と技術者に必要な姿勢を、最初の1、2年で徹底的に学びました。営業線車両を扱う仕事とはこういうことだ、と」
浜松工場で1年を過ごした後は、山梨の新しい実験線で始まる試験運用の事前準備にかかわった。以来、超電導磁石の開発エンジニアの1人として、すでに5年以上をリニアモーターカーの仕事に費やしてきたことになる。
「開発では1人で悩みすぎないことが大事だと思ってきました。だから、わからないことがあれば、すぐチームの仲間に聞く。でも、そのときはきちんと自分の意見を用意して、考えを述べてから相談するように気をつけてきました」
リニアの体験乗車の案内係という役割
そんな彼女が3年ぶりに山梨実験センターに戻ったとき、新たに与えられたのが、リニアの体験乗車の案内係という役割だ。
同社は年に数度、一般向けに超電導リニアの体験乗車を実施している。その際、普段は走行試験後の整備やデータ解析を行う技術部門の社員も、乗務員服に着替えて乗客を案内する。夏休みの時期は、子どもたちが「時速500km」の体験に歓声を上げ、平日は高齢の人々もやってくる。
「最初は私に接客ができるのかな、と不安でした。でも、実際にやってみると、お客さまと触れ合う機会は技術職にとっても本当に大事だと感じます。自分の仕事が世間に注目されていることを実感しますし、やりがいにもつながっています」
リニア中央新幹線の品川-名古屋間の営業運転スタート予定は2027年――。10年先のことだが、「新しい技術の開発に携わっていると、時間の経つのがとても早く感じます」と彼女は話す。「入社からの6年があっという間だったように、これからの10年間もあっという間なんでしょうね」
中央新幹線が開通したとき、自分がどのような技術者になっているのかは想像もつかない。ただ、近年は同社でも女性の技術系総合職の採用が増えており、多くの後輩が自分の働き方を遠くから見つめている、という自覚がある。
「10年後にどんな仕事をしていたとしても、後輩の女性社員の目標になるような働き方をしていたい。それこそ、誰かにモデルケースと言われるような存在になれればうれしいです」