23年間、「クローズアップ現代」(NHK)のキャスターを務めた国谷裕子さん。幅広いテーマを扱うなかで、国谷さんは「わかりやすさよりも、ざらつきを残すこと」を心がけていたといいます。疑問を封じ込めたら、その場にいないのと同じ。答えや知識がなくても、萎縮せずに問いを発する。そんな国谷さんに「問う力」の磨き方を聞きました――。
東京藝術大学 理事 国谷裕子さん

実は「撮れなかったこと」が重要

「クローズアップ現代」のキャスターを長く続ける中で、私がいちばん大事にしてきたこと――それは予断を持たずに日々のテーマと向き合う姿勢でした。

テレビ番組を作るうえで最も恐ろしいのは、思い込みや先入観、偏見を自分でも気づかないうちに持ってしまうことです。それらが作り手の側にあると、物事の背後にある本質を見逃したり、本来は抱いてしかるべき素朴な疑問を素通りしてしまったりするからです。

番組では、記者やディレクターが、その日の企画・テーマに向けて何週間も前から取材を続け、さまざまな素材を編集してVTRを作っていきます。しかし、映像が前提となるテレビには、どうしても「撮れたこと」をベースに番組を構成してしまう傾向があるんですね。取材ができなかったこと、撮れなかった映像については、それがどれほど大事な視点であっても、切り捨てられてしまうところがあるのです。

見えるものだけが物事の全体ではない

その意味でキャスターに求められるのは、その「本当は取材したかったけれどできなかった何か」を本能的に捉え、「そこに最も大事な切り口があったのではないか」と問う力だと私は考えてきました。目の前に見えるものだけが物事の全体ではない。だからこそ、実際の番組の放送時には、導入部分でのコメントやゲストへのインタビュー、VTRへのコメントといった「言葉」によって、映像としては残されなかったもの、取材はできなかったけれど重要だと思われるものを補い、視聴者に意識してもらえるように心がけていました。

その役割を果たすために必要なのは、政治でも経済でもさまざまな社会問題でも、やはり事前に多くの勉強をして、全体を俯瞰(ふかん)して見る視点を持つことでした。

大量の資料を自宅に持ち帰る

「クローズアップ現代」の放送は月曜日から木曜日までの週4日間。毎週、木曜日の放送を終えると、私は記者やディレクターの方たちが集めた大量の資料を紙袋に入れ、自宅に持ち帰っていました。

情報をインプットする順番はまず新聞記事、次に一般的な雑誌記事、それから専門的な書籍に目を通します。そして、最後に番組のゲストとなる方の著作を読み、知識を深めていきます。最初に新聞記事から読むのは、視聴者がよく目にしている媒体だからです。

情報の整理は特にしませんが、大事なのは最初の資料を読み始めた際に自分が感じた疑問を、学びを深める過程において常に忘れないようにすること。なぜなら、専門家ではない私が新聞記事などを読んで最初に抱いた疑問は、視聴者が抱く疑問とも重なるはずだからです。

知識や情報というものは、増えれば増えるほどディテールが気になっていくものです。でも、番組において私が目指していたのは、一つの問題の本質の部分を、いかに柔軟に、俯瞰して提示できるかでした。物事の本質を見失わないようにするためにも、初めに抱いた疑問を重視する姿勢が大切だったのです。

「当たり前」を常に問う

物事に対する先入観や思い込み、固定観念を持つことの怖さを私に教えてくれたのは、多くのゲストの方々だったといえるでしょう。

例えばいまでも強く心に焼き付いているのは、「母の日」の企画で永六輔さんを番組にお呼びしたときのことです。

その日の打ち合わせで、番組で使用する母親への感謝のさまざまな形をVTRで見た後、永さんは、「生きているお母さんには赤のカーネーションを贈り、亡くなったお母さんには白のカーネーションを供えるのは酷な気がする。なぜ区別するの」と話されました。そして、放送の中では、構成をなさっていた生放送のバラエティー番組「夢であいましょう」での体験を話されました。

それは同じ「母の日」の放送で、番組の終わりに出演者が1人ずつ、母親へのメッセージを言う趣向があったそうです。ところが、その中に1人だけ、何も言わなかった人がいた。放送後に話を聞いてみると、その人は「自分には母親がいない。だから、一度も『お母さん』と言ったことがないんだ」とおっしゃった、と永さんは振り返りました。そのとき、永さんは「母親のいない人にとって、『母の日』はつらい日なのかもしれない」と、はっと気づかされたと言うんです。私はこの話を聞いたとき、自分がいつの間にか持っている思い込みというものが、いかに危ういものであるか、先入観の怖さを教えられた気がしました。

永さんの語ったこのエピソードが象徴するように、番組でのゲストとのやり取りを通して私が学んでいったのは、ときに素通りしそうになる「当たり前」に対して、「本当にそうだろうか」と常に問う姿勢の大切さだったように思います。物事に対して常に問いを持つ姿勢こそが、思い込みや先入観から自分を自由にしてくれる唯一の方法なのだ、と。

疑問を封じ込めたら、その場にいないのと同じ

もちろん、社会や組織の中でそのように問いを発するのは、一方で勇気が必要な行為でもあるでしょう。自分には知識のないテーマについて、専門家に質問を投げかけたら笑われるかもしれない。上司や同僚に「面倒な人だ」「うるさい人だ」と思われるかもしれない……そんなふうに感じて萎縮してしまう人も多いのではないかと思います。

私も最初はそうでした。父親の仕事の関係でアメリカでの暮らしが長く、日本で教育を受けた期間が短かった。さらにNHKの職員ではない私は、番組のスタッフの中で常に異質な存在でした。NHKのキャスターとして働き始めた当時の私はコンプレックスの塊でした。何かを疑問に感じても、それを疑問に感じているのは、日本のことを詳しく知らない自分だけなのではないか。そんなふうにいつも不安だったんです。

左は、アメリカにいたころから自宅の机にいつも置いている盾。「IT CAN BE DONE」(なせば成る)という言葉に励まされたことも。右は貧困や環境問題、ジェンダーの問題など、世界の幅広い課題を解決するために採択された国連のバッジ。

それでも、「知らないから」といって自分の中に生じた疑問を封じ込め、黙ってしまったら最後、その場にいないのと同じことになってしまいます。むしろ、知らないからこそ、知っている人に素朴な問いを投げかけられる。それを続ける中でだんだんと、「なんだ、自分だけが抱いた疑問じゃないんだ」と気づいていったんです。

会議では素朴な問いかけから、新たな議論が始まっていくことが無数にあったものです。組織や社会の中でのその人の付加価値とは、問うことによってつくり上げていくものなのだと、私は確信するようになりました。

カルロス・ゴーンの「問う力」

問う力――質問をするという行為は、一つの物事に対するさまざまな見方を浮かび上がらせます。

カルロス・ゴーンさんをインタビューした際、彼がこんなエピソードを紹介してくれたことがありました。彼は「今後、会社をどう成長させるか」というテーマでディスカッションをするとき、必ず「成長」という言葉の定義をその場にいる全員に質問するそうです。

なぜなら「成長」と一口に言っても、ある人は「1%」でも業績が伸びれば、それを成長と捉えるかもしれない。一方で別の人は「5%」でなければ、成長とは言えないと考えているかもしれないからです。

同じ問題意識を持っているように見える人たちでも、議論の前提となる基本的な言葉の定義すら共有していない場合が多々ある。そんな中で、「成長とは何か」という一つの質問が、みんなが「当たり前」と捉えていた物事の本質を浮かび上がらせ、後の議論を活発化させるというわけです。

わかりやすさよりもざらつきを残す

「いま」という時代は、私たちを取り巻く情報のあり方が、昔と比べて一変しています。SNSに情報が洪水のように流れ、個々人は立ち止まって考える余裕がなかなか取れない。気が付けば、自分と同じサークル、似た考えを持つ人々から発せられる情報に取り囲まれ、全く違う考え方に触れることが難しい環境に多くの人が追いやられています。

そのように人々が情報によって分断される中で、2016年のブレグジット(Brexit)やトランプ米大統領の当選といった政治の大きな流れも生まれていったように感じられます。だからこそ、私たちには幅広い情報を得ながら社会と向き合う姿勢、全体を俯瞰した情報を常に得ようとするリテラシーが、より強く求められているのではないでしょうか。

答えや知識がなくてもいい。何かおかしいと感じたとき、ふに落ちない気持ちを抱いたとき、議論の場で適切な問いを発する感性。それが「いま」という時代の教養なのではないか、とさえ私は感じています。

23年間の「クローズアップ現代」のキャスターを終えたとき、視聴者の方からいただいた感想に、「ざらついたものを残してくれたことが良かった」というものがありました。

私はこの感想がとてもうれしかったんです。「クローズアップ現代」は課題を課題のままに見せることを通して、みんなが議論するプラットフォームを作ろうとする番組だったからです。

テレビ番組の作り手は明快であることを善しとして、物事をわかりやすく見せようとしがちです。しかし一方で、私は「わからないものを、わからないままに提示すること」「難しさを難しさのままに見せること」が、番組を作るうえで非常に大切だと考えてきました。すっきりとしないものが胸に残るからこそ、もっとこの問題について考えてみよう、と人は思うようになるはずだからです。

立ち止まって考える時間が与えられると、私たちは物事にゆっくりと向き合い、そのことが「問い」を生じさせます。そうして生じた「問い」について、自分なりに考えてみようとするとき、人はすでに学ぶことの入り口に立っているのです。

国谷裕子
東京藝術大学 理事。大阪府生まれ。1979年、米国ブラウン大学卒業。81年、NHK総合「7時のニュース」英語放送の翻訳・アナウンスを担当。87年よりキャスターとして活躍し、93~2016年まで、NHK総合「クローズアップ現代」のキャスター。98年放送ウーマン賞'97、02年菊池寛賞、11年日本記者クラブ賞、16年ギャラクシー賞特別賞を受賞。著書に『キャスターという仕事』。