巨大な建設機器に惹かれ、飛び込んだのは男性だらけの職場。3度の出産・育休を経て活躍し続ける女性エンジニアは苦しい時期をどう乗り越えてきたのか。24年間の思いに迫る。
石田あずさ●キャタピラージャパン 油圧ショベル開発本部 技術管理部 技術管理課。1970年生まれ。92年、東京農工大学農学部農業工学科を卒業後、キャタピラージャパンに入社。相模事業所(旧相模開発センター)を経て、2012年より油圧ショベル開発本部に配属。

米国に本社を置くキャタピラーは、重機メーカーの世界最大手である。その日本法人のキャタピラージャパンは、もともとキャタピラーと三菱重工の合弁企業で、かつては新キャタピラー三菱という社名だった。石田あずささんの入社は1992年。女性総合職の採用が始まって2年目だった。

「建機のスケールの大きさに惹ひかれたんです」

大学で農業機械について学んだ彼女はそう振り返る。

「埼玉県秩父市に弊社のデモンストレーションセンターがあるのですが、そこでキャタピラーの重機を初めて見て、そのスケールに圧倒されました。人間の2倍も3倍もある大きなタイヤが付いたダンプトラックや、見上げるように大きなブルドーザー。こういうものをつくる仕事に携われたら、面白いだろうなと感じたんです」

Essential Item●ヘルメット、安全・衛生課責任者ワッペンは必需品。ショベルカーのキーも、ステンレス直定規とともに持ち歩く。

そうして配属されたのは、神奈川県相模原市にある事業所の技術部実験課。技術者の総合職としては初めての女性社員だった。

開発車両の試験を行う実験課は当時、まさしく「男の職場」だった。試験場ではホイールローダやブルドーザーが動き回り、傾斜地を上り下りしたり、ショベルで穴を掘り続ける耐久試験を行ったりしていた。その一角にある建屋で、エンジンのベンチテストを行うのが最初の仕事だった。

育休で感じた危機感が仕事への意識を変えた

「仕事の半分が建機のテストでしたね。でも、設計の部署に一人でポツンといるのに比べれば、先輩や同僚と打ち解けやすい環境だったと思います。実験課は『この評価はこの人の腕一本にかかっている』という世界。会議室に水着のお姉さんのカレンダーが、どんっと飾ってあるような職場でしたが、職人気質の人が多く家庭的な雰囲気でした。それが私には合っていたのでしょう」

(上)「自分たちはプロの集団」という誇りを胸に、日々の業務に取り組んでいる。(下)「製造業で働く楽しさを伝えて、女性エンジニアを増やしていきたい」と石田さん。後進の指導にも熱が入る。

ただ、その頃のエンジニアとしての自分を振り返ると、「仕事に対して明確な目標や高い意識はまだ持っていなかった」とも言う。

エンジンの整備・調整を担当し、先輩社員と試験データを取る日々。仕事を淡々とこなすことには面白みを感じたが、分析結果や研究開発を深く追求し、自ら発信するほどの積極性はなかった。

そんな石田さんの意識が変化したのは、社内結婚を経て、入社7年目に最初の出産・育児を経験してからのことだ。

「当時の上司が、女性が働き続けられる環境をつくることにとても熱心な人だったんです。私も流れに任せて育児休暇の手続きをしましたが、『辞めるという選択肢』を示されていたら、全く違う結果になっていたかもしれません」

彼女はそれからの約10年間で、3人の子の母親になった。育休のたびに、「働き続けられるかどうか」を自らに問いかけてきた。

「育児に追われていると、『このまま仕事ができなくなるのでは』とふと思う瞬間がありました。でも私の場合、そう思ったときに、自分の中で仕事に対するスイッチが入った気がします。仕事を続けたいと心から考えている自分を再発見して、それならもっと一生懸命やらなきゃダメだ、という気持ちが芽生えてきたんです」

数年前、内永ゆか子氏が代表を務めるNPO「J-Win」の講演会に参加した。その際に聞いた言葉が、今も胸に残っている。

「『乗った馬から降りるな』。女性のキャリアには、どうしても手綱を緩めなければならない時期もあります。でも、そんなときはゆっくり走ってもいい。走れるときに加速すればいいんだ、と。子育てをしながら働く私にとっては、とても励まされる言葉でした」

女性エンジニアの先駆者として

現在の勤務地である明石に異動したのは5年前。事業所の生産工場と隣接する油圧ショベル開発センターは、同社のもっとも重要な研究開発拠点の一つである。世界各国のエンジニアが働き、外国人の比率も高い。

「キャタピラーの油圧ショベル開発は、明石が世界の司令塔です。ここで設計されたショベルは世界9カ所の工場で生産されるんです。相模原にいたときから、憧れの職場でした」

その開発センターでエンジンなどの設計に携わった彼女は現在、技術管理部で働いている。

そこで始めたのが、女性社員のネットワークづくりだ。同じ事業所内の女性社員に声をかけ、月に1度の定例会や勉強会、他の事業所や社外のネットワークとの交流の母体にした。最近では夏休みに地元の子どもたちを呼んでショベルの工作をしたり、女子高生向けにエンジニアという仕事の魅力を伝えるイベントも開いている。

女性総合職の採用が始まって25年が経つが、いまも女性エンジニアの割合は非常に少ない。長く同社で働いてきたエンジニアとして、その現状を変えていきたいという思いが彼女にはある。

「仕事を続けるうえで大切なのは、自分が活躍できる分野を見つけ、目標を持ち、結果を出すこと。当たり前のことだけれど、やっぱりそう思います。この会社には、女性社員・エンジニアの数が少ないという課題があります。自分にできることをコツコツとしていきたい。自分のキャリアについても、開発の中心的な仕事に挑戦したいと思っています」