各界の著名人が、今も忘れえない「母の記憶」とその「教え」について熱く語る――。
(左)神奈川県横浜市市長 林 文子さん(右)林さんの3歳の頃の写真。母・とくさんは1922年、父・重徳さんは15年生まれ。「母は15歳のとき、東京へ奉公に出ていました。東京での生活を経験していた母だったからこそ、生粋の江戸っ子である父にひかれたのかもしれません」

厳しい生活でも、人に甘えず自力で生き抜いた立派な母

日本がまだ決して豊かではない時代、女性が外で働くのが極めて珍しい時代に、母は一生懸命働いて私を育ててくれました。幼い私と母の2人が写っている写真はほとんどないのですが、それは、母が忙しく2人で出かける時間もなかったからです。当時は誰もが貧しくつつましい暮らしでしたが、それでも、女手ひとつで私を育てることになった母は、大変だったと思います。

母は千葉の浦安出身です。実家は漁業を営み、比較的裕福な家でした。私の祖父は活発な性格の母をとてもかわいがり、母をポンポン船に乗せて、浦安から築地市場まで通っていたそうです。その築地市場で仲買人をしていたのが私の父です。

父は、きっぷのいい江戸っ子。しかも、すらっとした、いわゆるいい男で、その父に見初められ、2人はたちまち恋に落ちました。当時、母は18歳。駆け落ち同然に2人は一緒になり、世田谷にある父の実家で暮らし始めました。

今は新婚生活を2人きりでスタートする人が多いと思いますが、当時は嫁、姑の同居はもちろん、その兄弟も一緒の家で生活を始めるのは珍しいことではありませんでした。母も、大家族で賑やかな新婚生活を始めましたが、伯母はかわいい弟をとられたような気持ちになったのかもしれません。次第に母と私に冷たくあたるようになりました。父はいたたまれない気持ちになっていったのだと思います。やがて家を空けるようになり、ついに私が小学5年生のとき、家を出てしまいました。

母と私は、世田谷区深沢にある6畳1間のアパートに引っ越し、母は電機工場で働きながら私を育ててくれました。一生懸命働いても少ないお給料で、家賃を滞納することが増えました。大家さんが家賃の取り立てに訪れ、払えないと部屋の退去を求められます。私にとって、住む場所がなくなることは恐怖ですらありましたが、私の心配をよそに母はいつもケロっとしていて、「明日引っ越すよ!」と、つらそうな顔ひとつ見せませんでした。

家賃が安いからと、大工さんの小さな納屋に住んでいたときのことです。風の強い日、引き戸の隙間から土間に入り込んだカンナ屑が運動靴にたまります。カンナ屑を取り払ってから靴を履いていた事が思い出されます。そういう厳しい生活の中でも、母は毎月500円ずつ滞納した家賃を返済していました。私が最後の分を返しに行くと、大家さんから三越の包装紙に包まれた化粧石けんを1箱渡されました。「これをお母さんに渡してね。普通、滞納して出て行った人は家賃を最後まで払わない。でもあなたのお母さんはきちんと支払う立派な人。だからあなたは大きくなったらお母さんに恩返しをしなさいね」。その言葉が心に染みて、今でも忘れられません。

自分が働いて、早く母を楽にさせてあげたかった

母は家族を置いて家出した父の母親の介護もやり遂げました。私が中学生の頃、体が悪くなった義母を私たちが暮らす6畳1間に引き取り、最期を看取ったのです。もちろん私も手伝いましたが、父がいない中、懸命に義母に尽くした母はとても立派でした。その後、「これからの人生をあなたに捧げる」と頭を下げて帰ってきた父を愚痴ひとつ言わず迎え入れ、添い遂げました。余計なことでくよくよせず、朝が来れば普通に生活する……そんな母の姿を心から素晴らしいと思います。

「母の米寿の誕生日に、お金とメッセージカードを渡しました。母が亡くなった後、財布の中には、まったく手つかずのお金とメッセージカードがありました。娘からもらったお金を大事にしまっていたんだ……と思うと、胸が締めつけられそうになりました」

一方の私はといえば、少しでも家計を助けたいと、小学生の頃、母が勤める電機工場の社長からご紹介いただいた貿易会社でお茶出しをしたこともありました。今では考えられませんが、働くのが当たり前でしたし、何の違和感もありませんでした。当時から「高校を出たら働くのは当たり前。自分が働いて、早く母を楽にさせてあげたい」という気持ちを強く持っていました。

今思えば、母は「ああしろ、こうしろ」と私の生き方に口を出したことはありませんでした。礼儀、礼節は厳しくしつけられましたが、私生活にも進路決定にも口を挟むようなことはなく、私は人生の岐路に立ったとき、当たり前のように1人で決めてきました。ただ一度だけ、私が「ファーレン東京株式会社(現・フォルクスワーゲンジャパン販売)」の代表取締役社長にスカウトされたときだけは、こう言いました。

「なぜそのような重責を進んで担おうとするのか」と。質素な生き方を好む人だったので、あの当時は私の生き方が理解できなかったのではないでしょうか。

私が子どもの頃はみんなが貧しくて、近所の人たちで助け合うことが日常で、物の貸し借りも気軽に行われていました。人が人にやさしかった時代……今よりずっと、人と人との関係が濃い時代でした。早くから社会に出て働き、転職を重ね、人の絆の素晴らしさをたくさん学びました。助けられたこともあれば、つらくあたられたこともありますが、今思い返してみると、こうした経験のすべてに感謝したいという気持ちになります。

最近、亡くなった母のことをよく思い出します。苦労を重ねながら晩年は幸せに暮らし、89歳まで長寿を全うしました。なんて素敵な人だったんだろうと……。共に過ごす時間は多くはなく、娘を抱きしめるというようなことはしないクールな母親でしたが、私の結婚後、共働きで家のことを十分にできないのを見かねて、父と2人で掃除に来てくれることもありました。本当は娘のことをもっと構ってあげたかった、という思いがあったのかもしれません。自分がこの年齢になってみて、今、大いなる母の愛を感じています。

目の前にある仕事に真面目に取り組めば、必ず道は拓ける

目の前にある仕事に一生懸命取り組みさえすれば必ず道は開ける、助けてくれる人もいる。そう教えてくれたのは、紛れもなく母です。企業の経営者を10年、市長になって7年。思い悩むたびに、“その日その日をしっかりと生きていく”母の後ろ姿を思い出し、勇気づけられています。

(上)3人で暮らしていた頃の写真が並んでいる。(下)「私が幼い頃までは幸せに暮らしていたと思います。この後、伯母との関係に悩み父は家を出てしまいます。でも、母は心から愛していたようで、たまに帰ってくると世話を焼いていましたし、身勝手な父を許し、添い遂げました」

今、働くお母さんたちは、子育てに十分な時間がとれず、“子どもにすまない”と自分を責めたりしているかもしれません。でもそうした方には「お子さんは、あなたの一生懸命な後姿を見ています。だから大丈夫」と言いたいのです。子どもとの時間が十分に取れなかったり、一緒にどこかに出かけたりしなくても、やがて子どもは必ず親の愛を理解する日が来ます。

日本ではまだまだワーク・ライフ・バランスが進んでおらず、子育ても介護も家事も、女性が担うことが多い現実があります。だからこそ私は、苦労している人たちが横につながり、本音で語り合えるようなネットワークや学びの場を提供していきたいと考えています。働く女性の支援にしっかりと取り組み、女性が働きやすい、働きがいのある社会をつくることが、私の使命だと考えています。

 
林 文子
神奈川県横浜市市長。1946年、東京都生まれ。東レなどを経て、77年ホンダ販売店に入社。その後、BMW東京代表取締役社長、ダイエー代表取締役会長兼CEO、日産自動車執行役員などを歴任。2009年8月、横浜市長に就任、現在2期目。14年、在日米国商工会議所「パーソン・オブ・ザ・イヤー」など受賞歴多数。