各界の著名人が、今も忘れえない「母の記憶」とその「教え」について熱く語る――。
(左)BTジャパン 代表取締役社長 吉田晴乃さん(右)お母様との思い出の一枚。16歳のとき、友人の紹介でお父様と出会い、一途な思いを貫いた。「父に『あなたを必ず看取るからね』と言ったのが彼女がついた唯一の嘘。温かくてやさしくて美しくて……本当に純粋な人でした」

“専業主婦の鑑”のような人でした

今日のアクセサリーも洋服も、実は母が身に着けていたもの。母はとてもおしゃれで、このゴールドのアクセサリーも彫金の特注品なんです。服のサイズも趣味もピッタリ合うので、「親子って不思議だな」と思います。

母は1937年(昭和12年)12月23日生まれ。父とは16歳で知り合い、23歳で結婚しました。一人の男性に忠誠を誓い、専業主婦として生きた、あの時代の女性の鑑(かがみ)のような人。学校が終わって帰ると、手づくりのおやつが用意されていて、紅茶を入れて待っていてくれる。毎日「今日は何があったの?」と娘たちを迎える温かい母親でした。母の時代の専業主婦たちは、今の働く母親とはまた違った意味で、本当に偉かったと思います。幼少期を旧満州で過ごした母は幼い頃の戦争体験から、平凡でもいいから皆がいつも一緒にいられる幸せな家庭をつくりたいと心の底から願い、それをちゃんと実現したわけですから。でも、そんな母を見て育った私は、反面教師でこうなっちゃいましたが(笑)。

母の中にある“矛盾”を確かめたくなった

私は3人姉妹の真ん中で、相当なじゃじゃ馬でした。キリスト教の伝統ある女子校に通っていましたが、反抗期もひどく、プラカードを持って職員室に立てこもったことも……。

母は何とか私を型にはめようとしましたが、当時の私はどうしてもそこからはみ出ようとする。でも母の中には矛盾もあって、私を型にはめようとする一方で、幼い頃から「これからの女性は社会に出て仕事をしていくべきなの」「自分でお金を稼がないと発言権もなくなるし、悲しい思いをするのよ」と、ため息交じりに私につぶやく母もいました。

次第に、母の中でくすぶる矛盾がいったい何なのかと、疑問を抱くようになります。「なぜそんな惨めな思いをしなきゃいけないの? それでいいわけないじゃない」と。だから今の私があるのは必然であり、何よりも私の中に母の血が流れていることの証しなのかなと思います。

大学受験のとき、印象的な出来事がありました。お嬢様校の環境に違和感を抱きはじめた私は、そのまま付属の大学に進学せず、飛び出すことを決めます。ところが、一番最初の入学試験が全くできず、落胆して大泣きした翌朝、勉強机の上に紙が1枚置いてありました。そこには「晴ちゃん、“意志あるところに道あり”」と母の字でひと言だけ書かれていました。当時の私にとってはものすごく重かったけれど、母のこの言葉は私の生涯の座右の銘となっています。型にはまらない私を嘆きながらも、「あなたは、自分の道を切り開いていきなさい」と最後はいつも背中を押してくれた母。「本当にそうだったね、ママ」と、今まさに思います。母の言葉は、死ぬまで私の背中を押し続けてくれるでしょうね。

(上)母方の家族。旧満州にて。チェックの毛皮を着ているのは晴乃さんの祖母。(中)お母様は家の中でもキレイにしていて、着くずすことがなかったそう。(下)晴乃さんとカナダで暮らす娘さん。娘さんの話になると「いつまでたっても心配よ(笑)」と母の顔になる晴乃さん。

今は、「ウーマノミクス」という造語も生まれ、女性が社会で活躍するようになりましたが、ここまでくるには、女性たちの、涙が出るような歴史があったわけです。時代時代のストーリーが紡がれ、「次の世代にはこう生きてほしい」と願う女性たちの聖火が手渡されてきた。そして進化した新たな女性像が誕生する……これはとても美しい女性たちの魂のリレーなんです。

私が子どもだった頃、日本は高度成長期に入り、男性たちは企業戦士として、国を立て直すべく働き続けました。自分の人生よりも日本の復興に命を捧げたわけです。女性たちはそんな男たちを支え、家庭を守り、心の中に宿る本当の声を犠牲にして生きてきた。そんな先人たちの自己犠牲にくすぶった思いが、今の私たちに伝承されている。

私は私で、当時は珍しかったシングルマザーの身で渡米し、髪を振り乱して営業先を回り、幼い娘に「マミー、行かないで!」と泣き叫ばれても取りつかれたように仕事をしてきました。母の世代から受け継いだ聖火、母の生きられなかった人生を生きてきたつもりだったけれど……。でも、娘の世代になったら、「それも違うよね。仕事か家庭かなんて、別に決めなくてもいいんじゃない?」となるでしょう。そして女性たちが何世紀もかけて求めてきた“女の理想的な生き方”にたどり着くのだと思います。

母は私の人生の根源です

私にとって母はすべての根源。最近、「親は死んでからが勝負だ」とよく思います。母が亡くなってからは、「あの時、こう言っていたな」「ああやって乗り切っていたな」と毎日思い出します。娘も今は「ママうるさい」なんて言っていますが、「私が死んだら毎日思い出すぞ~」とほくそ笑んでいます(笑)。娘には意外とつまらないことを口うるさく言っていますが、なにより“真剣に生きる後ろ姿”を見せようと思っています。そういう母親の姿が娘の今後の人生の糧になるだろうから。

(上)アンティークが大好きだったお母様のコレクション。「娘たちが独り立ちした後は毎朝、このティーカップで紅茶を飲みながら、写真の孫たちに話しかけていました」(下)お母様が大好きだった絵。「後ろ姿が母にそっくりなんです。」

政権が、社会が推奨するからとか、そんなことじゃないんです。そんなことがなくても私は同じように生きてきたと思う。私の血に宿っている母のDNAというか、私は母の魂を引き継ぎ“母が果たせなかった人生を生きたい”、そんな突き上げるような思いでやってきたのです。

がんで亡くなるまで、母はいつも言っていました。「あなたたちを抱きしめてあげたい……」と。そのときの“あなたたち”は小さい頃の娘たち。最後の瞬間まで母親でした。死ぬ間際まで娘たちに愛を注ぎ、力をあげようとしていたのです。

私もカナダにいる娘に会うと、ギュッと思いきり抱きしめます。「幸せでいてほしい」、ただそれだけ。家族や子どもは、女性にとてつもない力をくれます。子育て中、あらゆるジレンマでつらくて仕方ないのは、途方もない愛ゆえ。こんな危機的経験から得る力こそ、とてつもないResiliency(弾力性)となり、女性を成長させてくれます。だからどうぞ、そんな時期を大切にしてください。子どもが成長すると、「あれは一体何だったの?」と思うようなすべてが報われる幸せな時が必ずやってきます。だから働くママは、焦って答えを出さないで。

私が母を見て生きてきたように、娘が私のような母親を見て、どんな道を歩んでいくのか楽しみです。娘には思う存分自分の人生を生きてほしい。すべてを享受し、すべてを持ってほしい。そのためにも私はますます元気で頑張らなきゃ。娘が安心して働けるよう70歳で孫と公園デビューを果たすことが、今の私の大きな夢なんです(笑)。

吉田晴乃
BTジャパン 代表取締役社長。1964年東京生まれ。慶應大学卒。92年、結婚を機にカナダへ移住し、離婚後99年に渡米。NTTアメリカに入社。2008年、ベライゾンジャパンを経て、12年、BTジャパン代表取締役社長に就任。15年、日本経済団体連合会審議員会副議長に就任。