「俺は何が起きようと屈しない」。飲食業界の第一線を走るダイヤモンドダイニング社長、松村厚久さんを追った本『熱狂宣言』。彼の困難を見守り、共有してきたノンフィクション作家、小松成美さんとの対談が実現した。
「絶対に諦めない」病気も仕事も常に「熱狂」
【松村】若年性パーキンソン病を告白したことで、僕の困難はそこに注目されがちですが、2008年に発病する以前から、日々困難にぶつかっていました。父親の残した巨額の借金を背負いそうになったり、店のオープン直前にシェフが消息を絶ったり。1億円をかけた大プロジェクトの最中に突然、銀行から融資中止の連絡が入ったり……もう、数えきれません(笑)。
【小松】いくつもの銀行を走り回って頭を下げ、倒産を回避されたんですよね。
【松村】そう、社員が路頭に迷うことを考えると、恥ずかしいとか、みっともないとか言ってられないですからね。
【小松】松村社長を見ていると、立ち止まって悩むなんて、贅沢かもしれないと思ってしまいます。
【松村】諦める選択肢がないというか、やるしかない。何度もピンチになりながらも、やってこられたのは、多くの人に助けてもらったからですね。
【小松】取材をしていく中で、ダイヤモンドダイニングがすごい会社だなと確信したのは、会社内にある信頼関係や、失敗をどうリカバリーするかというエネルギーの存在なんですよ。以前、松村社長の秘書の堀さんが私に講演会の日程を間違えて伝えたことがあったのです。私は、慌てて堀さんが社長に怒られないようにと、スケジュールを調整して、彼女に「調整しましたからね。社長には言わなくても大丈夫ですよ!」と告げたんです。ところが、堀さんは私より先に、社長に自分のミスを伝えていた。さらにそのときの松村社長の対応が「え! まさか!」と一言言っただけだったっていう(笑)。松村社長と社員の方々との緊密な心の距離感を見た瞬間でした。
【松村】やっちゃったものはしょうがないから(笑)。あと、僕のポリシーとして、女性は絶対怒らないので。
【小松】男性社員には怒りますがそれも本人のため、お客様のためという信念がある。怒るときも、もてなしができていなかったなど、自分のためではなく、誰かのため。そういう社長だからこそ、難病を発症した後も誰も何も聞かずに、ただ、松村社長を信じてその背中を見失うことがない。そんな人と人との結束がダイヤモンドダイニングのポテンシャルだと思いました。
【松村】僕は、ただ、役割として社長をやっているだけ。社員に、助けられていることばかりですよ。
【小松】松村社長がパーキンソン病と闘い始めてから、2015年に周囲にその異変が知れるまで、時間がありましたよね。その間に、築いてきたものは絆だと思うんですよ。病気の告白にも誰一人、驚かなかったし、何も変わらなかった。異変が起きていることには誰もが気づいていたと思いますが、社長が言わないから聞かない。「社長は社長だから」という思いが、社員全員にあった。その思いの丈に深く感銘を受けました。
【松村】心配はかけていたと思います。だけど、僕が出す難題に見事に応じてみせる社員たちの姿に、僕は励まされました。だから、孤独だと思ったことは一度もないんです。もちろん、病気を受け入れられずに悩んだ時期もありましたが、それ以上に「社員たちの頑張りに応えられなくて、何が社長だよ」と。僕が、パーキンソン病になったことにも、きっと理由があるとも思いました。なぜなら僕しかなっていないのだから。病気の辛さを知ることでしかできなかったことがあるのかもしれない。実際、体は不自由ですが頭はどんどんクリアになっていきます。体が動かない分、五感が冴えわたって次へ、次へ、と考える。前進しかないんです。困難を乗り越えるために必要なことはただ1つだけ。絶対に諦めないこと。
本の力を信じているだから、小松さんに頼んだ
【松村】小松さんの著書、中田英寿さんの『鼓動』は僕にとってバイブルのような存在でした。当時は、飲食店を展開する前で、日焼けサロンを経営していたのですが、その頃から「いつか、小松さんに書いてもらえるようになりたい!」と思うように。そこから11年が経って、2011年に、知人の紹介でお会いさせていただいて。
【小松】そうでしたよね。そのときに「小松さんか、村上龍さんに書いてもらいたい」っておっしゃってくださっていて、最初はてっきり作家への社交辞令だと思って「ありがとうございます、光栄です」と答えたんですけど、その後に何度も何度も「本当です」と言ってくださって。
【松村】14年に、パーキンソン病であることを小松さんにお伝えして「すべてを本で書いてほしい」って正式にお願いしたんです。
【小松】それを、幻冬舎の社長の見城徹さんに話したんですよね。見城さんから「本当に書くんだな」と念を押されながらも「お前にしか書けない。お前が書かなかったら松村は絶望するぞ」と言われ、覚悟を決めました。実際、この本を出すことは本当に怖かった。書籍はテレビのような即効性のあるメディアではないけれど、伝える力はもっと強いし深いと信じていましたから、松村社長や会社がダメージを受けないかと、不安でした。
【松村】それは僕もそう。本には力があるって信じていました。だからこそ、「この人に書いてもらいたい。この人でなくては」って思いました。
【小松】私に会う前の著作を読んで選んでくださったことが本当にうれしかった。しかし、原稿を書き続けるうちに恐れは打ち消せないまでになり、ダイヤモンドダイニングが、東証一部上場を果たした頃からは体が震えるほどでした。もし、この本が出ることで株が暴落したら、松村社長へのバッシングがあったら、と。
【松村】覚悟のうえでしたし、社員も理解してくれていました。真実だから、怖くはありませんでしたね。小松さんに書いていただけることがうれしかった。だから、本が出たときは、それこそ「熱狂」しましたよ。
【小松】できあがった『熱狂宣言』に大きな反響があり、やっぱり書いてよかったと思いました。読者は賢明で、圧倒的に松村社長を応援し、まっすぐ見つめる方たちが大勢いました。私はいつも自分の書籍で、その時代に生まれた意志・スピリットを書きたいと思っています。これまで書いてきた中田英寿さんにしろ、イチローさんにしろ、YOSHIKIさんにしろ、もちろん松村社長も、その挑戦の一つ一つのエピソードで見ると挫折の連続なんです。皆、壮絶な傷を負っているんですが、彼らが鮮やかに世界を変えたとき、その困難の歴史こそ、実は面白い読み物になっていて、人の心をつかみます。松村社長は今、誰よりも読者の心を惹きつけています。
窮地から救ってくれるのは決断と人とのつながり
【小松】私の取材の根本にあるのは、自分自身の体験です。私が放送局に勤めていた頃は、女性がクリスマスケーキに例えられるような時代でした。24歳が売り時、25歳がギリギリで、26歳だとタダでも売れないと。20代半ばになると、上司からも「結婚しないの?」と言われる。そんな中、自分の表現を求めてさまよって、考えすぎて病気になって、救急車で運ばれて……そこで転職する決意をしたんです。困難にぶつかったとき、自分を変えるのは自分自身の決断でしかないと気づいたんです。誰も代わってくれない。松村社長もそうだと思いますが、代替えのある人生なんてありえないんです。
【松村】困難や憂鬱(ゆううつ)なことって仕事をしていたら必ずありますよね。幻冬舎の見城徹社長は、朝起きて憂鬱に感じることが3つないってことは、仕事をしてないってことだ、とおっしゃっていました。乗り越えるべき壁があるから、燃えて仕事に打ち込める。私もその通りだと思います。
【小松】そう、困難があるからこそ燃えるんですよね(笑)。これまでの経験から、私自身の中に思考のシナプスができたんだと思うんですけど、困難になると、どうやってリカバリーしようって集中して、考えて、行動して。それが好き。
【松村】乗り越えた先の誰かの喜ぶ顔や達成感を知ってしまうと、進むしかなくなります。
【小松】外食業界の困難といえば、11年3月11日の東日本大震災でした。飲食店がバタバタとつぶれていっている中で、松村社長は一度しか会ったことがない経営者にも電話をして、「大丈夫ですか」と声をかけ、危機を乗り越える術を伝えていたとのこと。それまで飲食業界って、横のつながりがほとんどなかったそうですね。
【松村】僕が同業者と仲良くしていたら、いつしか、部下たちも部署ごとに他社とつながって、情報交換をするようになっていて。それはうれしいことです。
【小松】これだけ成功されていても、松村社長は「まだまだ」ってお気持ちですよね。
【松村】そうですね。外食産業には、300億円限界説というのがあるんです。売り上げが300億円に達したところで成長が止まってしまうという。実際ダイヤモンドダイニングも、300億円が見えてきたとき失速感を覚えました。そんなとき、的確なアドバイスをくれたのは外食産業の重鎮や、長く僕を支えてくれていた社員でした。彼らのためにも、僕はもっと熱狂して、越えていかなくてはならない。失敗しても、財産がなくなるだけで死ぬわけではないんだから、また、新しい挑戦をはじめればいいんです。
高知県出身。1989年日拓エンタープライズに入社。独立後、2001年飲食1号店をオープンし、10年に100業態100店舗を達成。海外飲食やアミューズメント施設の運営、海外ウエディングなど事業を拡大。15年7月に、東京証券取引所市場第一部上場。
ノンフィクション作家 小松成美
横浜市生まれ。広告代理店や放送局勤務等を経て1989年より執筆活動を開始。人物ルポ、スポーツノンフィクション、インタビュー等の作品を発表。『中田英寿 鼓動』『五郎丸日記』など著書多数。最新刊は、GReeeeNを描いた青春小説『それってキセキ GReeeeNの物語』。