国会でも取り上げられて話題になった「保育園落ちた日本死ね」のブログ。待機児童対策を問われた安倍晋三首相が保育所を「保健所」と言い間違え、現状に対する認識の甘さを露呈したり、対応が後手に回ったことなどで、政府・与党は批判を浴び、2016年7月10日の参議院選挙でも大きな争点となったのは、まだ記憶に新しい。
整備補助などで残る民間の参入障壁
硬直化したシステムを改革する経済学的な処方箋の一つが「民営化」による自由競争の導入で、実は以前から取り組みは始まっている。ベビーシッターのプロである「ナニー」の育成・派遣業で87年に創業し、そこから保育業界の“ヤマト運輸”と呼ばれるようになった経緯を含めてポピンズの中村紀子代表取締役CEOが語る。
「出産を機にアナウンサーを辞め、フリーランサーとして復帰した際にベビーシッターに預けながら仕事をし、ナニーの存在を知った。ナニーを利用する人の大半が働く女性で、保育所への送迎ニーズが多かった。当時の保育所は17時で終わりだったからだ。そこで株式会社で早朝から夜まで預かる保育所をつくろうとしたら、児童福祉法で認可保育所の運営は、株式会社はダメだという。それを機に20年近くにわたる規制との戦いが始まった」
その結果、まず00年3月に中村CEOが勝ち取ったのが、(1)市区町村と社会福祉法人に限られていた設置に係る主体制限の撤廃、(2)30人以上だった定員の20人以上への引き下げ、(3)厳格だった土地や建物を借りて運営する場合の要件の緩和である。ポピンズは翌月、横浜市として初の認可保育所を市内の小机で開所。2016年中には認可・認証保育所を中心に同社の保育施設を161にまで増やす計画でいる。
しかし、認可保育所全体における株式会社のシェアが伸びているわけではない。図2で見た2万3537ある認可保育所のうち株式会社が運営するものは927で、そのシェアはわずか3.9%にすぎないのだ。窓口となる自治体が門戸を閉ざし、13年5月に厚生労働省が「積極的かつ公平・公正な認可制度の運用」を促す通達を出し、14年6月に公正取引委員会も「多様な業者の参入が可能となる運用を行うべき」との報告を行っているほど。
「正面切って株式会社はお断りとする自治体はほとんどなくなった」というのが保育事業者の一致した見方だが、民間参入の足取りは遅い。その理由についてグループ内に302の保育施設を運営するサクセスアカデミーを持つジェイコムホールディングスの岡本泰彦社長は「細かい運用を認めないなど参入障壁が多いからだ」とこぼす。その一つが先ほどの整備補助で、待機児童数が1182人で全国最多の世田谷区の場合、その対象に株式会社は原則含まれない。対象としているほかの自治体でも、社会福祉法人と株式会社とでは補助率を変えていたりするので、初めから公平な競争ができないのだ。
また、株式会社の参入組が異口同音に参入障壁と指摘するのが、保育所に対する「社会福祉法人会計基準」の適用と剰余金の使途の制限である。「企業会計基準と社会福祉法人会計基準の会計処理を同時並行でする必要があり、その手間がばかにならない。また、一つの保育所で出た利益は剰余金としてプールして、ほかの保育施設の新設経費としてごく一部を回せるが、株主への配当に充てられない」
全国で165の認可・認証保育所などを運営するJPホールディングスの荻田和宏社長が話す。同社は保育所を実際に運営する子会社からの経営指導料や、各保育所の給食業務の受託料などでの利益を配当の原資に回している。株主から出資を募り、利益を原資に配当で還元するのは株式会社の大原則。主軸の事業で足枷を課せられるのなら、新規参入が増えないのも道理だろう。
雇用形態改善で解決潜在保育士の問題
民営化に対する反論として「質の低下」がよく指摘される。しかし、高品質のサービスを提供して利益をあげ、それを原資に事業を拡大するのが民間企業の原則。「旧国鉄がJRになってサービスの質が低下したかというと、その逆で保育についても同じこと」とジェイコムHDの岡本社長はいう。
その保育の質の点で問題なのが保育士の確保だ。2016年1月の東京都の保育士の有効求人倍率は6.24倍になった。一方、保育士の資格を持ちながら、保育士の職に就かなかったり、離れてしまった“潜在保育士”が全国に70万人以上いる。彼らの活用が保育の質の向上に必要不可欠なのだが、ここでも規制がネックになっている。「認可の要件として保育士を雇用する際に、フルタイムの正規雇用が求められる。しかし、自分も子育て中で、パートタイムなら働きたいという潜在保育士が多い」と語るのは、年間2000人以上の保育士の人材紹介を行うドゥプランニングの鈴木稔社長だ。
同社が2016年4月に潜在保育士を対象にしたアンケート調査によると、復職しない理由の要因として、給与の安さとともに、家庭との両立や勤務時間が希望と合わないことなど、パートタイムなら解決できる要因が上位に並んでいる(図5参照)。また、そうした要因が解決できれば復職を希望する人が、全体の58%を占めている。
保育士の養成課程について疑問視する声もある。いま、保育士の資格を取るには、厚生労働大臣が指定保育士養成施設として指定した大学、短期大学、専修学校を卒業する、各都道府県が実施する保育士試験に合格するか、2通りの道がある。その保育士試験は、一度、社会人を経験したうえで「保育士になりたい」という志を持って挑戦する受験者が多いのだが、その合格率は15年度の全国平均で22.8%。一方、同じ年度の新司法試験の合格率は23.0%。試験の内容も性格も違うとはいえ、かなりの“難関資格”なのだ。
そして、保育士試験は各都道府県で実施するわけだが、自前で試験を作成しているのではない。各知事から「指定試験機関」の指定を受けて代行しているのが「全国保育士養成協議会」である。その点を指摘しながら、ある保育事業者は次のように話す。
「全国保育士養成協議会の会員名簿を見ると、指定保育士養成施設の名前が並んでいる。保育士試験の合格者を増やすと既得権益を弱めることにつながり、合格率に影響しているのではないか。総じて指定養成施設を卒業した保育士のレベルの低下が著しく、採用に値しないケースが目立つなか、質の高い保育士を確保したいのなら、この保育士試験の見直しも必要だろう」
バウチャー実施に立ちはだかる課題
「民営化を進めると保育料が跳ね上がる」という反対論も根強くあるが、鈴木教授は「東京都の認証保育所は、都が認可保育所並みのサービスの質を保証したうえで、自由価格にしているが、保育料の約9割が4万~6万5000円の範囲に収まっている(図6参照)。競争原理が働くので、質に対して保育料が高かったり、安くても質の悪い保育所は淘汰され、自然にある範囲に収斂されるからだ」と説明する。
民間企業なら、コスト削減と質の向上に対する努力は当たり前。ポピンズではトヨタの「カンバン方式」をベースにしたサービススキルの仕組みづくりを開始。たとえば、ベテラン保育士がおむつを替える様子を動画で収録し、一連の動作から効率的なスキルとは何かを分析し、全員で共有化している。また、サクセスアカデミーでは行政との事務手続きの本部一元化やICT化の促進、JPHDでは購買品の一括発注による価格交渉などに努めている。
それでも、現在の認可保育所の保育料とは差が出る。そこで鈴木教授が提案するのが、「バウチャー」という子育て利用券の配布だ。毎月5万円のバウチャーを配れば、保育料が月額6万円でも実質負担は1万円。低所得世帯にはバウチャーの金額を手厚くする。「認可保育所の公費投入を廃止すれば、財源は確保できる」と鈴木教授はいう。
ただ、バウチャーには注意が必要で、甲南大学の前田正子教授は「96年に英国の4つの町で一律年間1100ポンドのバウチャーを配ったが、新規参入者が増えず、特定の保育所に人気が集中し、翌年に廃止されている。OECDの報告書もバウチャーは政府の関与を弱め、サービスが断片的になり、質の格差が拡大し、アクセスに不平等が生じると指摘している」と話す。
その前田教授が成功例とするのがスウェーデンのある自治体で、保育所の量と質の確保は自治体の責任とし、保育の量を確保してからバウチャーを導入した。2年に1回は保護者が保育所の実態を書き込むアンケート調査を実施し、情報公開を行いサービス提供者と利用者との間の「情報の非対称性」を回避したことが奏功したそうだ。
鈴木教授も国や自治体による一定のサービスの質の担保を重視する。15年6月に閣議決定した日本再興戦略は、19年度末までの全保育所での第三者評価の受審・公表を目標に据えた。「保活では情報が最重要」と訴えるマザーネットの上田理恵子社長が13年からスタートした「保活コンシェルジェ」では、保護者のネットワークから得た、各保育所の“生情報”を提供して高い評価を受けている。バウチャーの実施には、民間参入による質の高い保育所の増設で、保護者の選択肢を事前に十分に増やすことが条件になるようだ。
自治体も保育改革に傍観しているわけでなく、東京・江戸川区は69年から独自の「保育ママ制度」を開始。原則、区内の認可保育所に入れるのは1歳からで、それまでは子育て経験者などを募った保育ママに預ける。12人の保育ママ、35人の子どもでスタートしたが、2016年度末にはおのおの、210人、400人規模になる見込みだ。
保育ママを務めている人の平均の年数は11年で、なかには36年という超ベテランの保育ママもいる。また、認可保育所の園長クラスの保育士が、2~3カ月に1回の割合で抜き打ちの巡回を行うなど、保育の質の維持・向上に努める。保護者の負担は基本保育料と雑費で月額1万7000円。保育ママに対して区は、保育補助費と環境整備費で毎月10万円を補助する。コストが格段に安く済み、全国の自治体からの注目を集めている。
また、大阪府は2016年5月10日に国家戦略特区を活用した画期的な待機児童解消策を発表。“岩盤規制”だった子どもの数に応じて決められている保育士の配置基準を自治体が独自に判断したり、全国一律の保育所の面積基準を緩和する裁量権を各自治体に与える考えだ。さらに、大阪市は民間保育所の実態調査に基づいた公立認可保育所の「保育士給与表」を新設するという。
待機児童問題の解決には、データを踏まえた経済学的な視点も加味しながら、官民一体となった冷静な議論が不可欠だ。当然、そこには父親の子育ても含めた育児休業のあり方の見直しも入ってくる。働いていても安心して子育てができ、子どもがすくすくと育つ社会でないと、真に豊かな社会とはいえないのだから。