年を重ねても、失敗や後悔をするのは変わらない。だけど……」と話すのは、スタイリストの“ヤッコさん”。スタイリストの先駆けとして、時代の寵児となったミュージシャンや俳優たちの“きらめき”にひと役もふた役も買った。そんな華やかな業界で働く彼女を支えたのは、地道に働く覚悟だった――。

人生を支えてきたのは「強い意志」と「覚悟」

日本の音楽、ファッション業界でこの人を知らぬ人がいたら、勉強しなおしたほうがいいかもしれない。

「表参道のヤッコさん」こと高橋靖子さんは、時代の寵児となったミュージシャンや俳優たちのきらめきにひと役もふた役も買った、スタイリストの先駆けだ。

フリーランス/スタイリスト 高橋靖子さん

デヴィッド・ボウイ、イギー・ポップ、坂本龍一、忌野清志郎。彼らは“ヤッコさん”のポップなセンスと響き合い、自分の魅力を視覚化した。いわば伝説的な存在だが、74歳の今も広告やコンサートの衣装を中心に活躍する現役である。取材当日の東京は台風直撃の大雨だったが、「さっきまで仕事で作りたい服に合う生地を探しまわっていたけど、無事見つかったのよ」と笑顔で教えてくれた。

茨城県で育ち、小学校3年生で子どもがいない叔父夫婦の養女となった。勉強は得意だったが、「女の子はそんなに勉強しなくていい、という時代だった」ため、希望した高校より入りやすい学校に通ったそうだ。それでも大学に行きたいと受験勉強して、見事、早稲田大学政治経済学部に入学。1960年の安保闘争真っただ中にとりわけバンカラな校風のせいか、女子は数えるほどだったそう。

「女の子の就職先も少なかった。在学中に応募した広告コピーの賞をきっかけに、なんとか広告代理店に就職できて。でも、原宿のセントラルアパートに入居していたレマンという広告制作会社に出入りしはじめて、すぐにそこに転職したの」

現在のラフォーレ原宿の場所はまだ教会で、東急プラザ表参道原宿の地にあったのは原宿セントラルアパート。60年代から70年代にかけて若者文化の発信地として時代を牽引(けんいん)した空間だった。刺激に満ちた毎日だったが、広告制作の現場は現在と違ってまだ混沌(こんとん)としていた。撮影で使う洋服や小物から撮影場所探しまで、何でも手掛け、数年後にフリーランスに。

「若くても年を重ねても失敗したり後悔したりするのは変わらない。だけど、失敗や後悔って、私はいつの間にか忘れてしまうの。それと時には小さな失敗はするけれど、大きな失敗をしないように注意を払ってきた。今も撮影の前日は緊張でよく眠れないのよ」と高橋さん。

資生堂をはじめ名だたる企業の仕事に恵まれ、第一線で活躍する一人として順風満帆の日々を送るなか、一念発起して貯金をはたき、ニューヨークにスタイリスト修業へ。時は1968年。人脈を頼ってのぞかせてもらったファッション撮影の現場と、ヒッピー文化全盛期の独特の空気に包まれていたニューヨークを全身で体感したことが、スタイリストとしての自覚を強く持つ転機となった。

大好きなファッションと音楽という華やかな業界で働いてきたが、「ちゃんと稼いで自立することが何よりも大事」と現実的な側面も強調する高橋さん。今だって大変な仕事と子育ての両立がさらに困難だった時代に、フリーランスとして子どもを育てながら働き続けた女性ならではの実感だろう。「スタイリストは人と関わらなければ成立しない仕事」ゆえに人との関係は重要だし、自分の生活を自分で賄うためにも、仕事は極力断らないようにしてきたという。子どもの頃から“頑張り屋さん”だった高橋さんの人生を支えてきたのは、とてつもない強い意志と覚悟、そして人一倍の好奇心だ。

「本を書くようになって何度目かのブレイクスルーを体感中。私ね、70代でまた新しい日々が始まったのよ!」

高橋さんはきっと、生きている限り、挑戦しながら働き続けるだろう。人生の先輩が元気に前へ前へと走る姿は、私たち後輩にとっても大きな勇気となる。

【写真左】晩年の宇野千代さんにかわいがられた。宇野さんにもらったお年玉袋も宝物。入っていた5000円もそのまま。【写真中】清志郎さんのコンサートで降り注いだ紙吹雪を今も大切にしまっている。【写真右】リサイクルショップで見つけた「ルイ・ヴィトン」をポップにリメイクしたバッグ。
高橋靖子(たかはし・やすこ)
1941年茨城県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、大手広告代理店のコピーライターを経て、縁あってスタイリストに。フリーランスのスタイリスト業として確定申告の登録第1号となる。最新刊『時をかけるヤッコさん』(文藝春秋)など著書多数。