129人の犠牲者と300人以上の負傷者を出した、11.13パリ同時多発テロ。ドイツでも英国でもなく、なぜフランスが狙われたのか? 河崎さんの問いに対して、あるフランス人は「イデア(思想)の国だから」と答えたという。その心は……?
幼稚園のとき、人生で初めて出会い、夢中になって全巻読破した少女漫画が『ベルサイユのばら』だったゆえの刷り込みか、どうもフランスに対しての極めて一方的な片思いというか憧憬(しょうけい)と関心が尽きず、実はいまだに下手くそながら細々とフランス語を習っている。学生時代の語学は英語とアラビア語(全て忘却のかなた)で、フランス語学習を本格的に始めたのは、ドイツ・フランス・イタリア語を公用語とするスイスに住んでいた時の生活上の必要から。「そのご自慢の猛烈に硬いスイス国産牛肉を、ぜひとも私のような軟弱な日本人向けにスキヤキ・スライスしていただけますか」と、英語を理解してくれない肉屋のおじさんに頼みたいという悲願で一念発起。ドイツ語はゴツいしイタ語はチャラいし、女子なワタシはオシャレなフラ語にする~、という偏見満載の三十路の手習いとなって以来である。その後ロンドン、日本でも、再開したりやめたり、仕事で行けないことも多いが、せめてもの脳のアンチエイジングとして続けている次第だ。
129人の犠牲者と300人以上の負傷者を出した11.13パリ同時多発テロ後初めての授業で、私のフランス語の先生は「フランスの2015年は1月のシャルリ・エブド事件で幕を開け、11月のパリ同時多発テロで暮れていこうとしています」と話した。まさに2015年を迎えるという時、彼女は夫とともにエッフェル塔の下でカウントダウンイベントに参加していたという。だが「エッフェル塔から旧陸軍士官学校にかけて、今までに見たことのないほどものものしい警備に違和感と生理的な恐怖を感じ、カウントダウンが終わるとすぐその場を離れた」という。人が集まるところはテロの対象になりやすい。彼女はそのままフランスの地方を巡り、正月休みを古い友人たちと過ごしたが、シャルリ・エブド事件発生のニュースが世界を駆け抜けたのは彼女が日本に向けてドゴール空港を発った、ほんの半日後だった。
「欧州を政治的、経済的に代表する国は、ドイツも英国もある。なぜその中でISはフランスでのテロに固執するのでしょう。彼らにとって、メルケルとキャメロンは許せてもオランドにはどうにも許せない何かがある、なんていうことがあるのでしょうか」と私は訊いた。先生は天を仰いで黙って考え込むと、「それは多分、フランスがイデア(思想)の国だからじゃないでしょうか」と口を開いた。
ドイツのような製造立国、英国のような金融立国でないフランスは、もともとは豊かな自然と作物に恵まれた大農業国だ。しかし彼らはどうも「フランス語は合理的で普遍的」と、世界のあまたの言語の中でも自分たちの特別な優越性を信じて疑わないフシがある。その自負は覇権主義の時代に一大フランコフォニー(フランス語圏)を形成したことでさらなる正当性を増し、深化したと言われる。何が驚くといって、あんなに動詞が複雑で、発音が恣意的(基準は「響きが美しいかどうか」)で、しかも「愛を語るならフランス語」という表現がぴったりなくらい超・情緒ドリブンでジュテームモナムールな言語なのに、当のフランス人は「フランス語ほど合理的でクリアーな言語はない」と確信しているというのだ……!
18世紀、アントワーヌ・ド・リヴァロールなる著述家が「フランス語の構文は不滅なのだ(略)明晰でないものはフランス語でない。明晰でないものは、英語、イタリア語、ギリシヤ語あるいはラテン語ではありうるが」と記し(=ディスり)、その「フランス語は明晰な言語である」の部分が一人歩きしたらしい。この、それこそ根拠や説得力を欠く「自分たちの言語への優越感」が、やがて簡単に「自分たちの文化への優越感」に横滑りし、そんな優越した言語を用いて導いた我々の思想(イデア)は普遍だと問答無用で確信する態度、「普遍のショービニズム(排他的愛国主義)」へと昇華した、と石井洋二郎は『フランス的思考―野生の思考者たちの系譜(中公新書)』で指摘する。
しかも、たとえ共和政を手にするのでも、容赦なく血で血を洗ってきた歴史が示すように、彼らは基本的に「闘争の人々」。現代でもとにかく、国鉄でもゴミ収集でも何でも労働ストで数カ月(!)サービスが止まるのは日常茶飯事だ。私がスイスで住んでいた街にはドイツ国鉄とフランス国鉄とスイス国鉄が乗り入れていたが、フランス国鉄(SNCF)がストで止まっていないときのほうが珍しかった(……というのはさすがに大げさです。すみません)。真面目さと時間の正確さでは日本の鉄道に匹敵するとされるスイス国鉄の駅員さんは、私が「もう1カ月ですよ! SNCFのストはいつまで続くんですかね?」と尋ねると「誰も知りませんよ。だって、ヤツらはフランス人ですよ?」と笑うのだった。
薔薇(ばら)には棘がある。問答無用の美しさを誇示して艶やかに咲く大輪の薔薇のような国、フランスの絶対性を否定するものはいない。だがその花は寛容なのか不寛容なのか、見る者によって色を変える。自分たちが世界の普遍的な基準であると信じる、フランス人の強烈な自負。そしてその思想のためなら徹底的にやりあう闘争心。しかも実のところ、隠しきれずに漏れ出る排他主義。高い美意識とは、どこか独善的で排他的だから維持できるものでもある。だからフランスでの有色人種差別は、どんなに現代のリベラル派が融和的な態度を取り、移民や難民の受け入れ政策を進めても、根深い。覆面で市井の人種差別実態を調査・報告する非政府団体があるほどだ。旧大陸たる欧州には、アメリカ新大陸で語られる人種差別とは構造的に異なる、文化の中に緻密に織り込まれた差別主義が歴然と横たわる。フランス、あるいはEU代表国の国籍を持ちながらISへ傾倒し、ジハーディストへと過激化していく「有色人種」で「異教徒」の青年たちの動機の根が、存在の無視や侮辱、排斥の経験など、理不尽な扱われ方への鬱屈にあるのは、想像に難くない。
今年の相次ぐテロで、移民排斥を唱える極右派ナショナリストたちの声はますます大きくなっている。それでもフランスが移民政策を転換しないのは、もしEU内の人の流動性を否定してしまったら、EUが、そして代表国の一つとしての自分たちが、存在の正当性を維持できなくなってしまうからだ。そしてシリア難民の受け入れを撤回しないのも、自分たちは欧州の大国として高貴な義務を負っているとの自負、あるいは拡大帝国主義時代への反省、または戦後教育の成功としてのリベラリズムや多様性への理解・共感ゆえだ。
小さな国々が国境を接するがゆえに戦争を繰り返した欧州。自分たちを壊滅させた大戦レジームへの反省と、折り重なる歴史の悲劇の重みと、表面だけ乾いたようで内部ではいまだ膿み続けるおびただしい大小の傷の痛みから、欧州「共同体」として再生する道へ一致した欧州各国のあまたの利害に想いをはせる。蒼き地中海の対岸に北アフリカが広がり、トルコを防波堤代わりに異教徒たるムスリムの国々の息づかいを間近に感じ、域内に第2次大戦の連合国と枢軸国が同居し、冷戦の東西を同居させた欧州共同体。そんな混沌の中に秩序を築くことを目指し、しかも「人の行き来は自由でなければならない」と信じることの重さよ。それを「もはや強迫観念的ともいえる固執」と指摘した人がいたが、その通りだと思う。
さて、そんな歴史的、地理的文脈の中の思想国家フランスだからこそ、思想闘争をするテロリストはそこを舞台に選ぶ。それを私のフランス語の先生は示唆したのだ。良くも悪くも、どこか同じようにイデアに囚われ、米国のようなモノやカネが決めるプラグマティックな合理性には一瞥(いちべつ)もくれず純粋な精神性にこだわる国だから。そしてそんなフランスが放つ超然と強い光が地中海の向こう側で煌々とするさまを、イスラムは否応にも視界に入れて暮らしているからだ。テロ後、フランスの各新聞・雑誌には”La guerre”(戦争)の字が踊った。美意識を尊ぶ人々が感情を傷つけられたとき、その反撃もまた感情的となる。スイス時代の私のフランス語の先生はブルネットのフランス人美女だったが、私が文法の質問をするといつも「だって、そのほうが美しいから」と言うのが口癖だった。理屈を超越して「美しいかどうか」が基準となる、その人たちが「戦争」という言葉をとうとう口にするのは、まさかそれが美しいからではないだろう。
フリーライター/コラムニスト。1973年京都生まれ、神奈川育ち。乙女座B型。執筆歴15年。分野は教育・子育て、グローバル政治経済、デザインその他の雑食性。 Webメディア、新聞雑誌、テレビ・ラジオなどにて執筆・出演多数、政府広報誌や行政白書にも参加する。好物は美味いものと美しいもの、刺さる言葉の数々。悩みは加齢に伴うオッサン化問題。