その時、疲れていたのかもしれない。それも体が疲れていたというよりは気持ちがそうだったのだと、今振り返ると記憶している。転職して新しい会社、変化した環境、人間関係、言葉一つ発するにも、脳から口へ指令を出して言葉を選び、慎重に話していた。そんな日々だった。

「刺激はいらない、重いニュースも聞きたくない、激しい音は嫌だ、難解なテーマの映画も本も今の自分にはヘビー過ぎる。優しい音楽、穏やかな時間、分かりやすい物語……力まずに読めるもの、ライトなエッセイはありませんか?」というタイミングに、電車のドアに貼ってあった1枚のステッカーに目が止まった。

タイトル『そういえば、いつも目の前のことだけやってきた』。爽やかな装丁、軽快なイラスト、出版社はマガジンハウス、著者は平田静子さん。これ、読みたいなぁ、今の自分にはこの本が必要だ! と思い込み、早速書店にて購入。それが本書との出会いであった。

『そういえば、いつも目の前のことだけやってきた』(平田静子著/マガジンハウス刊)

著者の平田さんは、1969年にフジテレビ入社、その15年後に扶桑社へ出向、宣伝部を経て書籍編集部の編集長となる。『チーズはどこに消えた?』『アメリカインディアンの教え』映画化された『象の背中』など、大ヒット書籍の出版プロデューサーで、現在も出版やイベントをプロデュースするヒラタワークス(株)の代表として活躍中だ。サブタイトルに「頑張るあなたが人生を楽しむ54の方法」とある通り、平田さんの思考、行動、仕事(ワーキングマザーの現実)が書かれてあった。

平田さんの言葉が、心地よく入ってくる。「そう、その通り。言い訳をしないで……結果は後からついてくる、そうだ、評価は他者が判断すること、大切なことは決して諦めないこと」――疲れた心に一つひとつの言葉がしみた。

ところが……だ。第3章“「もっと知りたい」がすべての始まり”を読んだ時、緊張が走り、本を持ち直した。そこには平田さんが関わった本、強盗殺人犯、福田和子の手記『涙の谷』の記述があった。

そこには、14年と344日、整形手術で顔を変えながら日本各地を逃げ回り、時効寸前で逮捕された福田和子に“会いたい”という一心で動いた平田さんがいた。あらゆる出版社が福田和子の弁護士と母親にアプローチをしていた中、平田さんは直接本人に会おうと試み、彼女がキャバレー勤めをしていた時の同僚にたどり着き、福田本人と面会が実現する。福田本人に会えたのは 平田さんと作家・佐木隆三氏のみだった。接見時間は15分。その短い時間を捉え、その後何通もの手紙のやりとりを行い、出版の約束、原稿の執筆、刊行まで至ったことが記されていた。

――「出所できたなら、温泉に一緒に行きたい」という手紙を読んだ時は、福田和子逮捕のニュースを見た時以上の衝撃を受けました。(中略)そして腹をくくったのです。彼女が出所してくるのは80歳過ぎだろう。私と彼女は同じ年齢なので、私もその時は80歳。彼女の気持ちに沿って生きていこうと」(本文より抜粋)

私はいったん本を閉じ、騒ぐ心を静めようと部屋の中をぐるぐる歩き始めた。お湯を沸かし、珈琲を入れ、ゆっくりと飲んだ。危うく心地よいエッセイだと勘違いしたまま、この本の凄さを、本質を、読み間違えてしまうところだった……。そして気持ちを落ち着かせ、もう一度最初から読み直していった。さりげなく、時にはユーモアも交え書かれてある文章の向こう側には、平田さんが実際に歩んできた真摯な軌跡があった。

平田さんが仕事や人生の波に乗るための姿勢は、“シンプルに考えていく”“「仕事が好きだ」「仕事を続けたい」という想いに素直に行動していく”ことだという。そう明快に言えるのは、悔しかった日、泣いた日を乗り越えてきたからだ。子供の入学式で休暇を希望し、立腹した上司から1時間怒鳴られ続けられたという記述もあった。1970年代、子育てをしながら働き続けることに、きっと葛藤もあったと思う。私はもう一度座り直し、一度目には見えてこなかった言葉の奥にある本質を、かみしめるように読んでいくことにした。

2年ほど前、縁あってある高名な役者さんと酒の席を共にしたことがあった。「最近よく若手の役者に、どうしたら一生役者で食べていけるようになれるのでしょうか? って質問されるんだよ」とその人は話し始めた。

彼は「そうだな、俺は運が良かったって思うよ」と答えたと言う。質問した若手の役者は「そうですか! 運ですか。運を呼びたいです!」と言って会話は終わったという。その人は苦笑しながらこう言った。「俺は運だと答えた言葉の向こう側をくみ取ってほしかったんだけどな。でも説明して分かることじゃないから。自分で恥かいて、悔しい思いして、這い上がって戦うしか、勝っていくしかないから」と。

本を読み終えた時、その役者さんとのたった一度の邂逅を思い出した。器の大きな人は必要以上に自分を大きく見せようとはしない。本書にさりげなく書かれている事柄一つひとつに、平田さんの真剣で、ひたむきな信念を感じる。読書の奥深さを改めて感じさせてくれた、自分にとって“怖い一冊”であった。