エントリーすら困難だった就職活動
そんなふうに企業が逆境にある中でも頑張ろうと思えたのは、就職氷河期に女性の少ない不動産業界に就職したことも理由の1つだったかもしれません。
私が入社したのは超氷河期と言われた翌年の1997年。とても厳しい就職活動でした。当時はまだ就職活動にインターネットは活用されていなかったので、志望する企業に応募ハガキを送ってエントリーする時代でした。ところが、女子大生には不動産会社から、そもそもハガキが送られて来ないんです。だから、大学の男友達に頼み込んでハガキを貰わないと、エントリーすらできませんでした。
結局、大手の総合不動産で受けられたのは1社だけ。ほかの業種も受けましたが、なかなか内定が出ず、ようやく決まったのが大京の一般事務職での採用でした。
当時は就職できただけでもほっとして、自分のキャリアを将来にわたって思い描くような余裕はありませんでした。いずれは結婚して辞めるか、あるいは出産して辞めるかだろう。そんな気持ちもありました。
その意識が変わったのは、最初に配属された部署がシステム企画部門だったことが大きいです。あの頃は会社でも1人に1台のパソコンが割り当てられ、ワードやエクセルを使い始めた頃です。社内にはまだ「ダブルクリックってどうやるの」という課長クラスの人たちが大勢いたので、私たちのような若い社員がパソコンの研修をしたり、社内でアナログ作業をしていたものをシステム化したりする仕事をすることになったんです。
普通、新卒で1年目の一般事務職となると、仕事もそれなりのものしか任せてもらえないものですよね。確かに就職氷河期ではありましたが、ちょうど社内がIT化される端境期だったので、そんなふうに会社の効率化にかかわる仕事に携わることができたことは幸運でした。
当時は地方支店に出張してシステム導入の説明会をすることも多く、そのうちに仕事が面白くなってきました。すると、いつのまにか会社を辞めるという選択肢は自分の中で消えていました。それで4年目に総合職に転換する試験を受けたんです。それまでは出張時でも制服を着て新幹線や飛行機に乗らなければならなかったので、総合職になったときはずいぶんとスッキリとした気持ちになったものです。
総合職になってからは販売の現場なども経験しましたが、結婚して出産をした後に希望して経営企画の部署に移りました。自分のキャリアを長い目でみるようになったのは、その頃からですね。
会社の覚悟、女性の覚悟
企業の中で歳を重ねていくと、若い頃は見えなかった働く上での目標がだんだんと明確になってきます。私にとっては転職を思いとどまったことを契機に、その目標が自分の中で定まってきたと感じています。
営業の現場を除くと、この業界は今も会議の席に女性がいることがほとんどありません。私自身、女性の上司を持ったこともないので、それくらい男性が多い職場だと言えると思います。
自分が組織改革の仕事を担当している視点から言っても、女性が働きやすい職場を作ることは周囲に良い影響を与えると感じています。例えば、出産して子育てをしながら働いていると、保育園のお迎えなどがあるので、時間の使い方がとてもシビアになるものです。そのことで、ずいぶんと仕事に対する集中力が変わったと感じています。そのような新しい考え方や価値観が組織に入ってくると、周囲の仕事に対する心構えや姿勢にも良い影響が出てくるのではないでしょうか。
ただ、そうした社員の多様性の良い面を引き出すには、やり方をしっかりと考える必要があるでしょうね。それこそ男性の視点で「女性が1人くらいは必要だから」「こういう時代だから」と無理に女性を登用してしまえば、結局は本人にとって過剰なプレッシャーになったり、周囲からの冷たい視線を呼び起こしたりすることになってしまいます。
大切なのは会社側にも私たち女性社員の側にもお互いに覚悟があって、きちんとした機会が正しく与えられていくこと。
いまは「現状維持即退歩」――現状のままで良いと思った途端に、後ろに下がってしまっているような時代です。仕事でしっかりと求められる成果を出し、それに応じた立場が会社からしっかりと与えられ続けてくことが、結局は社内の女性進出を進めていくのだと思います。
●手放せない仕事道具
ノート。仕事を覚えるのにも、考えを整理するのにも、ノートは必需品です。
●ストレス発散法
あまりストレスを感じていないのですが、「旅行」でリフレッシュしています。
●好きな言葉
「やればできる」「現状維持即退歩」
1997年慶應義塾大学卒業後、一般職として入社。2000年、総合職に職種転換。住宅企画部でマーケティング、事業企画等を経験し、08年産休。10年、グループ経営企画部。12年より、担当課長に。