世界最古の歴史を有する最大級の国際芸術祭、第56回ヴェネツィア・ビエンナーレ(2015年5月9日-11日22日)が開幕しました。イタリアのヴェネツィア市内を舞台に、メイン会場や国別の建築物、ナショナル・パビリオンを構え、各国を代表するアーティスト達が賞レースをすることから、「現代アートのオリンピック」と称されることもあります。
一般公開に先駆けて、世界中から現代アートの関係者が集うヴェルニサージュ(特別内覧会)にて、「New York Times」ほか主要なメディアから「観るべき作品」として大きく取り上げられ話題となっている日本館の作家、塩田千春さんに現地でお話を伺いました。
鍵を巡るさまざまな物語
Q 人の記憶をテーマにした新作「掌の鍵」についてお話しいただけますか? 展示室に足を踏み入れた瞬間、自分の体まで真っ赤な光に包まれ、宙に張られた無数の赤い糸と鍵に圧倒されます。その下には2艘の船が。赤、糸、船、そして鍵に託した想いを教えてください。
【塩田千春(以下、塩田。敬称略)】赤い糸と鍵は、人をつなぐシンボルです。毛糸の赤は血液の赤で、鍵は人の形に似て、大きな頭で小さな肩をしていますよね。
この作品では、人と人を赤い糸でつなぎたい、と考えました。アジアで赤い糸は、運命を示します。そして西欧でもゲーテの『親和力』の中には、イギリス軍のロープの中に1本の赤い糸が編み込まれていて、切ったときにどこの軍隊のロープかわかるようになっている、という一説もあります。今回は、全長約400キロメートル分の赤い毛糸を使いました。
鍵は、日々の暮らしの中で大切な人や空間を守る身近な大事なものであり、また、扉を開けて未知の世界へ誘うきっかけ。そんな“想い”から、今回発表する新作のインスタレーションには、皆さんのいろいろな思い出と沢山の毎日の歴史が積み重なり記憶が宿った鍵を使いたいと思い、世界中の一般の方から鍵を募集しました。
一部、鍵業者の方からもご提供いだいていますが、18万個の使われた鍵とともに、鍵にまつわる個人的な記憶や思い出が私のもとに届きました。一つひとつ、かけがけの無いものです。
鍵の下の2艘の舟は、両方の掌を表しています。この船は記憶を受け止め、拾い上げ前に進み繋いでいく。鍵を―チャンスや未来を―握っているのは私たち、という気持ちも示しています。そして1階のピロティでは、未来を背負っているのは子どもたち、という考えから、子どもたちにどうやってこの世にやってきたのかを尋ね、それに答える様子を収録した映像作品《どうやってこの世にやってきたの?》を展示しています。これもまた、人間の最初の記憶の物語です。
大規模な国際舞台で大切なこと
Q これまでも、国内外で大規模なインスタレーションを数多く制作していますが、今回はどのように空間と関わりながら作品を制作しようと考えましたか?
【塩田】日本館は、展示をするにはちょっと変わった空間です。1階は吹き抜けのピロティ、2階は四角い箱のようになっていて、天井は高いけれども、面積が狭いのが特徴です。そして会期は7カ月で約55万人以上の来場者を記録する、世界でも類をみない大規模な国際展です。
長い会期中に作品が壊れてはいけないし、大勢の観客のための十分な空間や導線を確保しなければなりません。そこで今回はまず、展示スペースとして天井を使おうと考えました。実際、多くの方々が途切れることなく来場しても、ゆったりと観賞してくださっています。
チームを率いてカタチをつくるということ
Q 国際的な舞台で大掛かりな作品を制作する、という意味で、作家としての顔のほかに、戦略的にチームを率いるリーダーとして今回心掛けたことはありますか?
【塩田】通常は美術館など、館ごとに企画を司るキュレーターや作品の搬入および展示を管理するレジストラー、作品のコンディションを整えるコンサベーターなど、複数の専門家が存在している場所で私は作家として作品をつくることに集中できますが、今回は日本館という建物だけがあり、組織は国際交流基金が日本にある、という特殊な環境です。
ビエンナーレ開催の約1年前に国際交流基金が実施するキュレーター指名のコンペティションで、キュレーターと作家が提案する展示プランが国内で選考されます。私の場合は日本にいるキュレーターの中野仁詞さん(神奈川芸術文化財団学芸員)と、本展のためにチームを組むところから始めました。私がヴェネツィアに比較的近いベルリンに住んでいることもあり、ベルリンで長年一緒に働いているスタッフと挑むことにしました。
鍵という新しいモチーフに挑戦すること、時間や予算、体制など条件が限られ、精神的にとてもハードで厳しい現場になることが予想できたので、私の作品に対する理解とともに、これまでさまざまな課題を共に乗り越えた信頼できる存在が必要だったからです。もしも私が日本に住んでいたら、経済的にも物理的にも毎月スタッフとともに現場へ通うことはできなかったでしょう。
そして、準備段階でも現場でも、予想をはるかに越えたいろいろな問題が次々生じましたが、キュレーターやスタッフなどチームや多くの人たちの助けがあり、自分を信じて諦めずにやり遂げました。最後の1週間は、信頼しているスタッフと会場に2人きりで濃密な作業に集中することができました。
また、現地で制作を手伝ってもらったスタッフに、その後の会場監視も引き続き携わってもらっています。こうしたスタイルは珍しいことのようですが、チームのメンバーには作品に深くかかわって欲しいので、このプランを最初から考え、実行しました。そのため、会場のスタッフは作品に対する愛情、理解がとても深いと思います。
こうした経験はここでしかできなかったと思うので、全てのクレジットにチームメンバーの名前を載せています。感謝と大きな達成感を感じています。
赤い糸と鍵の親密な関係
Q 制作を通じて、まさに人と人が結ばれていますね。目には見えない過程で生じた親密な“想い”も、作品に表れているのかもしれません。美術業界、一般の来場者問わず、実際に観た多くの人々から、記憶に残り、心を強く動かされる素晴らしい作品だと絶賛されていますが、制作前後で心境の変化はありますか?
【塩田】これまで、常に自分の今出せる力を出し切って仕事をしてきました。幸いにもこのことを評価され、日本館の作家に選ばれたのだと思います。
ただ「私が日本を代表する」と力みすぎると、自分が潰れてしまう恐れがありました。塩田千春という一作家として作品に取り組み、力を尽くそうと心がけました。
制作が終わり実際に開館してみると、「今年の日本館はどう?」とか「日本館の作品はいいね。」など、日本館という1人称で語られることが多く、日本を背負っていたのだと気づかされました。
これは、国別パビリオンという独特なシステムが確立しているヴェネツィア・ビエンナーレならではの体験なので、やってみなければ分からなかったですね。
また、はじめて作品に鍵を使いましたが、今回の経験を通して、鍵のもつ深さに気づかされました。今後も鍵をテーマにした作品をもっと発表したいと思っています。
日本館ではこういう形でやりきった達成感がありますが、別の場所ではまた違った作品になると思います。
創作の孤独と家族の存在
Q 最後に、働く女性としてのご自身を感じる時はありますか?
【塩田】自分の中に2人の塩田千春が存在します。作家としての自分、そして母としての自分です。この2人は決して交わることがありません。自然にそうなっていますね。
作家である私が作品をつくるエネルギーは、誰にもとめられません。それは、決して枯れることもありません。作品は命より大切です。
しかし、この仕事はとても孤独で厳しいものです。正直、作家活動だけではつらすぎる人生です。結婚し、出産し、仕事も続けていますが、作品だけで生活することはとても難しく、家庭という基盤が人生においても仕事においても大切だと思っています。
私には娘がいて、彼女を出産したときは産後1週間で仕事に復帰しました。その後もベビーシッターや家族のサポートがあり、さまざまな国で同時並行しながら作品を制作し発表し続けてきました。
それでも、仕事から家に帰って娘ととりとめのない話をする時間は、ほっと心が安らぎます。娘は小さいときから私が働いている姿をみているので、彼女にとってはこの生活が普通です。
ここ3週間、家を空けていますが、娘の「ママ、おかえり!」という一言が、私にとって何より一番うれしいですね。
※2015年夏、塩田さんの作品を東京でも観ることができます。新たな境地へと挑み続ける塩田さんにご期待下さい。
※次回の第56回ヴェネツィア・ビエンナーレ【3】は7月17日更新予定です。
1972年、大阪府生まれ。ベルリン在住。
生と死という人間の根源的な問題に向き合い、「生きることとは何か」、「存在とは何か」を探求しつつ大規模なインスタレーションを中心に、立体、写真、映像など多様な手法を用いた作品を制作。
神奈川県民ホールギャラリーの個展「沈黙から」(2007)で芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。
主な個展にスミソニアン博物館アーサーM.サックラーギャラリー(ワシントンD.C./2014)、マットレス・ファクトリー(ピッツバーグ/2013)、高知県立美術館(2013)、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(香川/2012)、カーサ・アジア(バルセロナ/2012)、国立国際美術館(大阪/2008)など。 また、キエフ国際現代美術ビエンナーレ、瀬戸内国際芸術祭、あいちトリエンナーレ、モスクワビエンナーレ、セビリアビエンナーレ、光州ビエンナーレ、横浜トリエンナーレほか国際展にも多数参加。
【塩田千春・東京での展覧会情報】
http://www.kenjitaki.com/pages/intro1_j.html
【ヴェネツィア・ビエンナーレ】
http://www.labiennale.org/en/calendar/art.html?back=true