町に保育園がやってくる!

2015年春開設予定だった目黒区の保育園が、反対運動により延期。連載をはじめる時、意識したのはこの一件だった。私の自宅から比較的近いこともあり気になっていたので、その取材からはじめようと考えた。実際いま、保育園側と反対運動の方々の双方に話を聞いている最中だ。

「社会福祉法人 桔梗」の山田静子理事長。1960年代、看護師としてキャリアをスタートさせた山田さん。自身も働くママであった経験を生かし、その後の人生を保育とともに歩んできた。

その情報収集をしている中で、某テレビ局でこの手の話題を追っているママ記者から、1990年代に住民の反対運動を乗り越え、保育園の開設を実現した東京都町田市の「ききょう保育園」のことを教わった。物理的条件をクリアしただけでなく、地元の人びとにうまく溶けこんでいったという。さっそく当時の園長で現・社会福祉法人 桔梗、山田静子理事長を訪ねた。お歳は70代後半だが、まだまだ現役を続けられそうなエネルギーあふれる女性だ。

その経歴は著書『保育園大好き 私の山あり谷あり保育人生』(ひとなる書房)に詳しいが、1960年代に看護師として働いていた彼女のようなワーキングマザーが、当時いかに理解されなかったか、物理的にも大変だったか。この本は戦後の働く女性史としても興味深いので、保育関係の方に限らず面白く読めると思う。そして彼女のワーキングマザーとしての経験は、その後母親たちを支援する上で大きいのだと感じた。

住民の反対、園長の困惑

1970年、山田さんは町田市の公団住宅に転居し一時専業主婦となった。その後、団地内にできた保育園に看護師として再び働きはじめ、さらに資格をとって保育士になった。そんな折り、同市内の鶴川に新たにできる、病院を運営母体とする保育園から主任としてスカウトされる。その後、75年には園長に任命され、それからいままでずっと保育一途の人生だった。異年齢保育や病児保育など、新しい考え方やり方をどんどん学び実践してきた。

90年代になると運営母体である病院の経営が芳しくなくなって病院の廃止が決まり、それに伴い、病院に併設されていた保育園の存続も危ぶまれた。保育園存続を求める声は多く町田市の行政や議会も動き、93年9月、町田市は保育園移転の代替地を確定することになる。なじみ深い鶴川、園長(当時)として山田さん(以下、山田園長)は安心したが、本当の困難はそこからだった。

市の担当者とともに移転先の近隣の家々に挨拶して回った。その時は異論も出ずに歓迎ムードだったのが、翌日「みんな反対している」との連絡が入る。山田園長は大いに戸惑い、また悲しくなった。鶴川の地で長年保育園をやってきたのに、「迷惑な施設」と扱われたことに衝撃を受けたのだ。

その後1年間は町田市と地元住民との間で話し合いが何度も行われ、94年10月、やっと設置のメドがついて96年春に開設することになったと聞かされた。工事が済むまでの仮の園舎で過ごす中、95年9月に初めて検討委員会に園長として出席を求められた。そこで改めて住民たちから静かな生活環境が侵害される不安を並べたてられ山田園長はまた戸惑う。

子供も地域も、ともに成長していく

子供たちの声のうるささ、送迎の車の音や事故の危険。そのために、防音の施策や通行のルールが求められた。建物の敷地の高さをできるだけ下げることも決められた。こうした細々とした要望に対し、山田園長は丁寧に説明し、可能な限り受けとめ、でもこだわるべきところは胸を張って主張した。

話し合いを乗り越えて、新しい「ききょう保育園」は1996年7月に完成し、仮の園舎から引っ越した。93年に園長が近隣に挨拶に行ってからほぼ3年間かかっている。

長年に渡り、粘り強く地域に溶けこむ活動を重ねた結果、周辺住民との軋轢も解消し、自然な関わりがもてるように。保育園と園を利用する家庭、地域の人々、そして行政、相互の歩み寄りが子育てインフラの快適を育む。

移転したらそれで万事解決、というわけではない。何しろ、“反対”した人びとに囲まれているのだ。そこで園長は、少しずつ住民たちに溶けこめるよう努力を重ねた。町内会に誘われて入会し、恒例のもちつき大会の場所がないというので保育園を会場に提供した。園の夏祭りに住民の参加を呼びかけたら加わってくれるようになった。園で教えていた太鼓を、卒園生向けにも教える教室を開催するようになった。そうやって保育園は、何年もかけて町に溶けこんでいった。

移転時に決めた送迎時の交通ルールをいまもチェックしている人もいるが、「来てみると、そんなにうるさくないもんだねえ」と言ってくれる人も多い。いまでは同じ町の、同じ住民として保育園を認めてくれているようだ。

また、十数年に渡って保育園の父母会によって自主的に運営されてきた“病後児保育”の試みを、2000年から病後児保育制度を導入することで、新たに園としての受け入れが可能になった。これは、利用する地元の人々と保育園が一体となって取り組んだ成果だと、園長は言う。さらに保育園に子供を預けている家族だけでなく、子育てで孤立しがちな母親たちみんなの助けになろうと、2006年に子育て支援施設「あじさい村」を保育園のすぐ近くに建てた。一時保育も含めた地域の子育て支援センターとして多くの母親たちに活用されている。

未来を担う子供たちを、町ぐるみで育てる。

山田園長とききょう保育園は、町田市での反対運動をなぜ乗り越えられたのだろう。著書の中で園長は「保育園は家庭の延長線上にある昼間の大きな家だ」と書いている。それから、いまの園の状況について「ききょう保育園はもう鶴川1丁目の一員である。これからも町内会の会員として役に立てる保育園になっていこうと思っている」と記している。

保育園はひとつの家であり、町の一員である。だから子供を預ける親だけでなく、同じ町に住むすべての人びとの役に立ちたい。その理念が、町との共生をもたらしたのだろう。

これは、子供を預ける親たちも考えておきたいポイントだと思う。あなたが預けた保育園は、その町の一員。だとしたら、あなたもその町の一員なのだ。そういう意識を持てるかどうかは、これから続々新設される保育園と町との関係に関わってきそうだ。ききょう保育園から私たちが学べる点は多い。

この事例を参考に、目黒区の問題も見つめてみたいと思う。

境治(さかい・おさむ)
コピーライター/メディアコンサルタント
1962年福岡市生まれ。東京大学卒業後、広告会社I&Sに入社しコピーライターになり、93年からフリーランスとして活動。その後、映像制作会社ロボッ ト、ビデオプロモーションに勤務したのち、2013年から再びフリーランス。ブログ「クリエイティブビジネス論」でメディア論を展開し、メディアコンサル タントとしても活躍中。最近は育児と社会についても書いている。著書にハフィントンポストへの転載が発端となり綴った『赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない。(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4990811607/presidentonline-22/)』(三輪舎刊)がある。