お産婆さんの意外な役割

1964年の東京オリンピック開催から、今年で50周年。各地でさまざまな企画がおこなわれているが、この時代の妊娠・出産はどんな様子だったのだろうか。50年前を振り返ってみると、この時代は現代とはまったく違うように見えて、実は「このあたりに、現代の起点がある」と感じる部分も多い。

経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれたのは1956年だが、確かに、東京オリンピックの時代は出産シーンでも戦後の大変化がひととおり終わったところという印象だ。

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出生数の推移(出産場所別)人口動態統計 市部/郡部

戦後すぐに起きたベビーブームの頃は、日本の赤ちゃんのほとんどは「お産婆さん」と呼ばれた開業助産師による自宅出産で生まれている。GHQは、当時のアメリカには助産師がいなかったので自宅出産をやめさせようとしたのだが、やがて日本の助産師は正規の教育を受けていることを理解したので自宅出産時代はしばらく続いたのである。

お産をお願いするお産婆さんは地域ごとにだいたい決まっていて、育児や結婚生活など女性のよろず相談を引き受けていたという話も多い。地域には、配偶者選びを手伝う人もいた。その人たちが活躍したのがお見合い結婚である。

しかし、1950年代になると若い人たちが都市に集中するようになり、結婚や出産の世話を焼く地域ネットワークは機能しなくなっていく。50年代に市部が若い人を大量に呑み込み、郡部から出産が急速に消えていく。市町村合併の影響もあるだろうが、それにしてもこのスピードには凄まじいものがある。

出産のかたちが激変した60年代

病院出産と自宅出産の比率が逆転したのは、オリンピックの5年前に当たる1959年だ。その翌年の1960年には、お見合い結婚より、恋愛結婚の方が多くなった。

50年代生まれの日本人は、お見合いで結婚した両親から、お産婆さんの介助により自宅で生まれ、野山で遊んで育つ日本人が多かった。これが団塊の世代の人たちが生まれ育った時代だ。それがわずか10年くらいで日本の親は激変した。1960年前後からは、町に住む恋愛結婚の両親から、病院で生まれてくる日本人が多数派になってくる。

東京オリンピックはそんな新しい出産、子育ての風景が定着していく中で開催された。

地縁や家族の助けを頼みにくくなったこの時代に、豊かさを増したのはモノだった。各家庭に家電製品が次々にそろっていき、東京オリンピックでは、テレビの普及率が上がったと言われている。子どもたちは、企業戦士である父親とは遊べなかったが、オリンピックの前年に始まった「鉄腕アトム」を始めとする傑作アニメーションの数々に魅了され、その時間帯にCMが流れる玩具をねだった。

ただ、子どもたちは、いつまでもテレビを見ていられるわけではなかった。学習塾が登場したのも、1960年代だった。わが子を「エリート」にしたいと必死になる母親たちは、「教育ママ」と呼ばれた。

大学進学率は、1960年代から1970年代なかばにかけて驚異的に伸びた。1960年には約1割しかなかったのに、たった15年間のうちに男の子では4割に達し、これは現在の5割と大して変わらない。東京オリンピックの時代は、子どものために支払うお金がふくれあがっていく時代でもあった。

3人欲しいけれど……

当時の親たちが幸運だったのは、とても若かったことだ。1960年代前半の初婚平均年齢は男性が27歳、女性が24.5歳くらいで、この年齢は、人生で最も妊娠、出産に適している。だから妊娠しようと思えば、通常は、あっという間にパパ、ママになることができた。

この時代は、一見、出産率が非常に安定していて少子化に悩む現代とは正反対に見える。日本には、合計特殊出生率が「2.0~2.1」というけっこうな値のまま実に20年近くも安定していた時期があるが、東京オリンピックは、その真ん中で開催されている。

しかし、東京オリンピックの頃に結婚した若い夫婦たちは、実は、子ども数を増やさないように慎重になり始めたジェネレーションだった。

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夫婦の完結出生児数(人)

国の調査「出生動向基本調査」では、夫婦の最終的な子ども数を知るために、結婚後15~19年経った初婚の夫婦の子ども数「完結出生児数」を調べている。それによると、団塊の世代を出産した戦後の夫婦は3人以上の子どもを持つことも多かったようだが、1970年代に産み終わった世代から現在の水準になっている。

希望の子ども数を聞くと、今も昔も「3人欲しい」という人が多い。しかし、なかなか踏み切れない人が多い状態は続き、しかもますます悪化しながら今に至っている。

「出産や育児を助けてくれる身近な人が、いつのまにか消えている」
「子どもひとり育て上げるのにお金がかかりすぎる」

オリンピックで沸いた50年前に定着してしまった、そうした不安が理由かもしれない。時代を後戻りすることはできないが、あの時代に豊かさと引き替えに失ったもの、新たに背負ったものについて新しい方法を真剣に考えない限り、次の50年もまた同じことが続くだろう。

河合 蘭(かわい・らん)
出産、不妊治療、新生児医療の現場を取材してきた出産専門のジャーナリスト。自身は2児を20代出産したのち末子を37歳で高齢出産。国立大学法人東京医科歯科大学、聖路加看護大学大学院、日本赤十字社助産師学校非常勤講師。著書に『卵子老化の真実』(文春新書)、『安全なお産、安心なお産-「つながり」で築く、壊れない医療』、『助産師と産む-病院でも、助産院でも、自宅でも』 (共に岩波書店)、『未妊-「産む」と決められない』(NHK出版生活人新書)など。 http://www.kawairan.com