のちに小説家として成功する宇野千代(朝ドラ「ブラッサム」のモデル)は、東京帝大に入学する夫に付き添って上京した。日本近代史研究者として「ブラッサム」の風俗考証を務める刑部芳則さんは「千代が小説を書き始める前に目指し、選考会にまで参加したのは別の華やかな仕事だった」という――。

※本稿は、刑部芳則『宇野千代 昭和モダニズムの伝道者』(NHK出版新書)の一部を再編集したものです。

教師を辞めた後、母方の伯母と再会

大正5年の夏の夕方、千代が臥龍橋の下の河辺に5人の弟妹を連れて氷を食べに行くと、伯母の藤村カツと再会した。このとき、かつて千代が10日間嫁いだ藤村亮一の弟である忠ただしも一緒であった。

忠は京都の第三高等学校(三高)の3年生であり、白い浴衣に三高の帽子を被っていた。三高の徽章きしょうに白線3本を周囲につけた黒の制帽は、エリートの象徴であった。夏休みの休暇とあって白い浴衣に袖を通していたが、通学期間の冬服であれば黒、夏服であれば霜降しもふりで五つの金釦きんぼたんをつけた詰襟の制服を着ていただろう。岩国中学でさえ岩国ではエリートであり、それよりも上位に位置する京都の三高となれば、当時の中学生からは羨望せんぼうの的であった。

かつての夫の弟はエリートに

しかし、千代は忠に関心を持たず、無口な忠も多くを語らなかった。カツは千代に、忠が一人暮らしをしているのが心配だが、夫を残して京都に行って同棲するわけにもいかないという話を聞かせる。これは千代に自分の代わりに京都へ行って、忠と同棲して身の回りの世話をしてほしいと頼んでいるようでもあった。

それから2カ月が経った10月頃に、忠から千代宛てに突然手紙が届いた。忠が千代に思いを寄せたようで「京都の知恩院の一画内にある一つの寺に間借りしている」ということを告げていた。これを受けた千代も忠に心を寄せるようになり、両者で文通が始まった。

文通で心を通わせ、広島で一晩を…

12月には冬休みで帰省する京都の忠から、広島駅に到着するので、迎えに来てくれませんかという手紙が届いた。千代は広島駅まで迎えに行って、その夜は帰らずに、二人で旅館に宿泊している。

この冬休みの間に忠と千代の仲はより親密となり、藤村家と宇野家の間でも公認の間柄となった。そして冬休みの終わりには藤村カツの代わりとして、千代が京都に行って忠と同棲することも決まる。大正6年2月に千代は新港から船で京都に向かった。朝鮮半島に渡ったときと同じように、なるべく人目に付きたくなかったのかもしれない。

大正時代から昭和初期にかけての広島駅
大正時代から昭和初期にかけての広島駅(1912~45年)、『目で見る懐かしの停車場』より(写真不詳/Public domain/Wikimedia Commons)

忠が下宿する京都・知恩院で同棲

京都では一足先に戻っていた忠が千代を迎えた。忠は着物に袴姿であったが、知恩院の間借りしている六畳一間の部屋には、三高の制帽と黒のマントが壁にかけてあった。黒のマントは制服としては定められていなかったが、高等学校の生徒を示す象徴といえる。その他には机、火鉢、本箱が置かれているくらいの質素な部屋であった。

京都の同棲生活では、常に貧しさが待っていた。その原因は、岩国地方裁判所で勤務していた忠の父が退職し、年金生活を迎えたため、忠への学費を含む生活費の送金が途絶えがちになったことによる。忠は三高の授業ですぐに使わない教科書を質草に入れたり、本箱を売りに出したりした。千代は生活費を稼ぐため、中国人の家事手伝いに出たが、そこに向かうときは電車に乗らず、歩いて行った。千代は忠が卒業して東京に行くまで、京都で働き詰めの日々を送った。

東京帝大に合格、千代も共に上京

藤村忠は千代の支えによって、大正6年9月に京都三高を卒業し、東京帝国大学法学部に入学することが決まった。そのため、忠と千代は東京へ行くこととなる。二人が向かったのは、本郷湯島天神の裏にある兄亮一の下宿であった。亮一は浅草の寄席で働き、そのお茶汲みの女と同棲していた。僅わずか10日間とはいえ、結婚式まで挙げた千代と亮一の再会であった。お互いに恋愛感情などあるはずもなく、数日後に亮一と女はどこかへ出て行ってしまう。そして残された忠と千代もそこを後にして、小石川駕籠町の女髪結かみゆいの店の2階に移った。

1910年ごろの東京帝国大学赤門前(本郷)
1910年ごろの東京帝国大学赤門前(本郷)、東京大学医学部・医学部附属病院創立150周年記念ポストカード(写真不詳/Public domain/Wikimedia Commons)

忠の兄で千代の最初の夫は病死

湯島天神の下宿で別れてから半年後に亮一は肺結核によって死去する。千代と忠は見舞いのため、伊豆七島の一つである八丈島まで行った。八丈島は結核患者の療養先として最適な場所と見なされていた。伊豆七島のなかでも大島は、東京から一番近い場所にあり、明治22年(1889)に渋沢栄一が東京湾汽船を設立し、昭和戦前期には「大島航路」と呼ばれ、観光客で賑わっていた。それに対して一番遠距離にある八丈島の観光化は遅れ、江戸時代に罪人が運ばれた頃と大差のない光景が広がっていた。

千代は日比谷の出版社に勤める

上京直後に千代は、日比谷の実業之日本社という出版社の会計係を月給13円で勤めた。湯島から電車に乗って通勤した。最初はお金がなくて、露店の八百屋で一山3銭の屑蓮れんこんを買って、毎日食べていたという。昼の弁当にも入れていたが、あるとき仕出し屋の40銭の鰻うなぎを注文したところ、それが病みつきになり、毎日注文するようになった。

昼食の仕出し代は給料から天引きだったため、翌月は電車の回数券を買う金もなくなり、日比谷まで歩かなければならなかったという。

学生の夫を支える質素な暮らし

このときのことを千代は回想して、「自分のことを貧乏とも可哀そうとも思ったことはないのでした」と書いている。しかし、「お金がなくて電車にも乗れない」ようになったのは、月給が底をつくほど鰻を食べたのだから仕方がない。忠も家庭教師の仕事をしたが、学校の授業時間外となると、稼ぎにも限りがあった。また学業と仕事との両立も難しかっただろう。千代は学生という立場で稼ぎの乏とぼしい忠を助けるために仕事に出たはずなのに、これには忠も困っただろうことが察せられる。

44歳ごろの宇野千代
写真提供=株式会社宇野千代
昭和16年、44歳ごろの宇野千代、小石川台町にて(株式会社宇野千代提供)

こうした仕事をしていた間には、女優と歌手になる夢を見たこともあった。千代の憧れの女優は松井須磨子であり、部屋の壁には彼女の写真を貼っていた。「奴やっこさんの踊りを習いに行ったくらいで、あの松井須磨子のような偉い女優さんになれるでしょうか」と後年に懐かしんでいる(『私のお化粧人生史』)。

作家ではなく女優になりたかった

大正3年の「カチューシャの唄」(作詞:島村抱月、相馬御風、作曲:中山晋平)は、松井の歌声で流行したが、千代の愛唱歌であった。この曲は、劇団芸術座の第三回目の公演『復活』の劇中歌として作られた。松井は、女優としても歌手としても、全国的に人気があった。

千代は女優になりたいと思っていたため、日曜日に団子坂下の踊りの師匠のところに通い、日本舞踊の稽古に励んだりした。そのようなときに「女優募集。新時代の芸術家たらんとする若き人は来きたれ。日給八十銭支給、すぐその日から採用す。面会は西巣鴨一丁目、吉村写真館」という新聞広告を目にした。写真館に行くと、次回の撮影日時を伝えられた。千代は撮影日に写真館に向かうときに、「これが女優さんになる首途かどでの場所」だと感じたという(『私のお化粧人生史』)。

松井須磨子
酔芙蓉著『松井須磨子:新比翼塚』(共成会出版部)、大正8年、国立国会図書館デジタルコレクション

女優の選考会にまで参加したが…

刑部芳則『宇野千代 昭和モダニズムの伝道者』(NHK出版新書)
刑部芳則『宇野千代 昭和モダニズムの伝道者』(NHK出版新書)

写真館には女優志願者が7名ほどいた。この日の写真撮影は、近所の杜もりの原っぱで「杜のお姫さま」と題して行われたもので、お姫様役は女優の梅村蓉子であった。梅村は大正11年(1922)に松竹蒲田撮影所に入社し、翌12年の『散りにし花』で銀幕デビューする。まだ映画女優になる前の時代であった。

千代たちは蝶の衣装を着て、梅村の回りでポーズを取らされた。ところが、千代はズロース(パンツ)を穿いておらず、また衣装が透けるように薄いため、野外での着替えに手間取った。そして、赤い腰巻の上にそれをつけたため、他が白い蝶なのに自分だけ赤い蝶になってしまったという。

女優の梅村蓉子
映画『足にさはつた女』1926年/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons
映画『足にさはつた女』(1926年)。左から岡田時彦、梅村蓉子、島耕二。『日本映画の歴史』より。Wikimedia Commons

オペラ歌手の三浦環を目指していた

こうした苦い体験をして、次回以降の撮影には臨まず、女優の夢も諦めてしまう。また、昭和59年(1984)1月には「三浦環の片鱗」(『群像』1984年1月号)という文章のなかで、この頃に声楽家の三浦環のような歌手になることを夢見ていたともいう。三浦の歌唱で流行した「恋はやさし野辺の花よ」を愛唱していたとも回想している。

1917年のシルバン劇場の開場公演でパフォーマンスを行った三浦環
1917年、アメリカのシルバン劇場開場公演でパフォーマンスを行った三浦環(出典:メーガン・ブレット)。Wikimedia Commons

千代は「声がとてもよかったの。それでね、畠はたけへ出てね、大きな声で歌うたって、自分の声に自分が聞きほれてね、いい声だなあと思ってね。これは、三浦環ってのがそのころあれでしたから、三浦環とおんなじになろうと思ってね、歌うたいになるつもりでね、東京へ出てきたの」と語っている(『新編 黒柳徹子の一生懸命対談』)。松井と三浦の歌唱に憧れたわけだが、歌手の道も女優の夢とともに消えたのであった。