秀吉は天才的な戦術家だったが、自身の戦闘能力はどうだったのか。大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)の歴史考証を務める黒田基樹さんは「秀吉は戦闘で弱かったわけではない。盗人の捕縛や戦場での首取りの功で所領を得て、士分ではない奉公人から7年で信長の側近家臣になったと考えられる」という――。

※本稿は、黒田基樹『信長時代の羽柴秀吉』(角川選書)の一部を再編集したものです。

武士未満の奉公人から7年で側近家臣へ

永禄元年(1558)9月1日に、織田信長の奉公人になった秀吉は、7年後の同8年には、信長の有力側近家臣にまで出世していくのであるが、その経緯については、当時の史料にはみられない。そのため江戸時代成立史料をもとに推測するしかない。そのなかで良質の内容を伝えているとみなされるのが、「太閤記」と「明智軍記」である。

「太閤記」は、信長に仕えてから1、2年は信長の側近くに仕える立場になかったので、信長の近習に近づいて、その用事を務めていたが、ある時に信長が犬山領に侵攻した際に、信長の目に留まって、以後は信長から直接に用事を命じられるようになり、その後のある時に、清須城塀修理の奉行を務め、永禄6年に川狩り合戦で一方の大将を務め、同年秋に美濃墨俣すのまた(大垣市)に在陣した際、美濃墨俣で信長馬廻衆の福富平左衛門尉秀勝の笄こうがい(編集部註:髪を整えるための棒状の道具)が盗まれた事件で盗人の嫌疑をかけられるも、盗人を捕縛し、同7年1月に薪奉行を務め、その後、同9年までの間に「万の奉行」を務めた、としている。

「太閤素生記」は、信長に仕えて、草履取りとして奉公し、その後に「小人頭」に出世して、藤吉郎を称した、としている。ただし「太閤記」が伝える経緯をみると、「太閤素生記」がいう草履取りの機会はなかったようにも考えられる。

織田信長像(模本)
織田信長像(模本)、原本は安土桃山時代、模写は明治時代。東京国立博物館所蔵 出典:ColBase

足軽になったとき苗字を付けた?

「明智軍記」では、信長に仕えて「小人」になり、永禄4年8月20日に清須城塀修理の奉行を務めて、その功で「足軽」(下級兵士、陪臣)になり、苗字を出身村名からとって「中村藤吉郎」を称して、信長馬廻衆の木下雅楽助うたのすけの寄子よりこに配属され、同5年5月中旬に美濃墨俣で信長馬廻衆の福富平左衛門尉秀勝の笄が盗まれた事件で盗人の嫌疑をかけられたものの、盗人を捕縛し、その功により信長から所領30貫文(年収約300万円)を与えられて直臣になり、寄親よりおやの木下雅楽助から木下苗字を与えられて「木下藤吉郎」を称して、その後(永禄6年のことか)に尾張犬山(犬山市)での戦功により所領100貫文を与えられて「士大将さむらいだいしょう」になり、同7年1月には、数千の朋輩を飛び越えて、信長への年頭挨拶で広間に着座するようになった、としている。

狩野随川画「豊臣秀吉像」
狩野随川画「豊臣秀吉像」名古屋市秀吉清正記念館蔵(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)

ゼロから出世の階段を上っていった

出世の経緯について、「太閤記」と「明智軍記」は概おおむね同様のことを記していて、元になる史料が共通していたことがうかがわれる。そのなかで「明智軍記」は、それぞれの事柄の年次を明記し、また苗字を称する経緯についても触れている。なかでも注目されるのは、足軽組頭の木下雅楽助との関わりである。同人は、信長の一代記である『信長公記』(角川ソフィア文庫)にも所見される実在の人物である一方、著名な存在ではない。それ故にその所伝は真実味を感じられる。

これらをもとにすると、秀吉が信長の有力側近家臣にまで出世した経緯は、以下のように考えられる。

はじめは奉公人として奉公し、永禄4年8月に清須城塀修理奉行を務めた功により、下級兵士の「足軽」に取り立てられ(給分は寄親から支給される形態だったろう)、信長馬廻衆木下雅楽助の足軽組に配属され、侍身分になったことにともなって苗字を称することになり、出身村名をとって「中村藤吉郎」を称した。

永禄5年5月もしくは同6年秋に、美濃墨俣に在陣した際に、信長馬廻衆福富秀勝の笄が盗まれた事件の盗人を捕縛した功により、所領30貫文を与えられて、信長の直臣に取り立てられ、信長の命令によって、寄親であった木下雅楽助から木下苗字を与えられて、「木下藤吉郎」を称した。おそらくそれにあわせて実名「秀吉」を名乗るようになったのであろう。

武内確斎作『絵本太閤記 7編』
武内確斎作、岡田玉山画『絵本太閤記 7編』1797~1802年、江戸時代(国立国会図書館デジタルコレクション)

「墨俣一夜城」の逸話は完全な創作

これにより秀吉は、信長の直臣になったが、30貫文は独自に軍事行動できる所領高ではないので、信長直臣の誰かに与力として配属される形態であったと推定される。

ちなみに信長は、永禄4年5月の時点で、墨俣砦すのまたとりでを確保していることが確認されている(『信長公記』)。同地への在陣について、「太閤記」は同6年秋、「明智軍記」は同5年5月としていて相違している。いずれが妥当かは判明しないが、「太閤記」は時系列が整然としていないので、「明智軍記」の所伝のほうが蓋然性は高いであろうか。なお信長はその後も同砦を確保し続けたと推定されるので、江戸時代後期成立の「絵本太閤記」が記す「墨俣一夜城」の逸話は完全な創作である。

武内確斎作『絵本太閤記 7編』
武内確斎作、岡田玉山画『絵本太閤記 7編』』1797~1802年、江戸時代(国立国会図書館デジタルコレクション)

年収1000万円相当の所領をもらう

永禄6年頃か、犬山領侵攻の際に戦功(敵兵の首をあげたのだろう)により、所領100貫文を与えられ、「士大将」になった。ちなみに「太閤記」は、犬山領での活躍を永禄4年以前に置いているが、信長の犬山領侵攻は同6年から開始されるので(横山住雄『織田信長の尾張時代』)、時期は整合しておらず、この点も「明智軍記」の所伝に蓋然性がある。

ただし所領100貫文(年収約1000万円)は、正規兵(すなわち専業兵士)として最低限の所領高なので、「士大将」というのは誇張した表現といわざるをえない。実態は、独自の家臣団を率いる存在になり、信長の馬廻衆に配属された存在であった、と推定される。

秀吉の専業兵士化は、首取りの戦功によっていた。後年、秀吉自身も、「信長公幕下に属し、身を山野に捨て、骨を海岸に砕き、干戈を枕とし夜半に寝、夙におきて軍忠をつくし戦功をはげます」と述べ、戦功をあげていたことを述べる。また安芸毛利家の外交僧・安国寺恵瓊は、「信長の下にても、羽柴々々と申し候て、世上繰り(調略)をも、又弓矢をも手に取り候て、鑓やりをもつき、城をも責め候て存ぜられ候」と、信長家中のなかで武略に長じた存在であったことを述べている。

秀吉が所有した刀「銘・吉房」
秀吉が所有した刀「銘・吉房」(鎌倉時代、福岡一文字吉房作)東京国立博物館所蔵 出典:ColBase

実は武芸に秀で、戦功を挙げた秀吉

秀吉は、現在の小説・ドラマで描かれているような、武芸に劣った存在ではなかった。しっかり戦功をあげられる武略に通じた存在だった。

そして永禄7年1月の信長への年頭挨拶において、広間に着座することができるようになった。これは秀吉が、有力側近家臣に出世したことを示している。

秀吉が初めて歴史史料に出てくるのは…

ここで秀吉の初見史料について紹介しておくことにしよう。秀吉が初めて当時の史料に登場してくるのは、永禄8年(1565)11月2日に、尾張松倉(岐阜県各務原市)の領主・坪内利定に、織田信長による所領の保証および給与を取り次いで、判物はんもつ(花押を据えて出した公文書)を出していることである。

参百貫文 下野

反銭・小物成共に

七拾貫文 十町名

弐拾貫文 宮田

弐百卅弐貫文 所々御台所入りにて

都合六百廿弐貫文

右、御判の表、末代に於いて御知行せらるべく候、

永禄八 木下藤吉郎

十一月二日  秀吉(花押)

坪内喜太郞(利定)殿

信長が尾張統一を果たした頃の記録

黒田基樹『信長時代の羽柴秀吉』(角川選書)
黒田基樹『信長時代の羽柴秀吉』(角川選書)

坪内利定に対して、信長は9月3日に領国における鉄炮による鹿・鳥猟を認める特権を与えている。信長はそれより以前の2月22日に、犬山城を攻略して尾張一統を達成していた(横山前掲書)。坪内家はもとは犬山織田家家臣とみられ、同家滅亡後に信長家臣になったと推測される(谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』)。

秀吉判物の翌日付で、信長は坪内惣兵衛尉・同玄蕃尉(勝定、惣兵衛尉の子、1516~1609)・同喜太郞(利定、勝定の子、1539~1610)の親子三代に、尾張下野以下678貫文の所領を保証および給与し、さらに同日にそれとは別に300貫文の所領を与えている。

秀吉は、信長から坪内への所領の保証および給与を取り次いでいた。これは秀吉が、信長の馬廻衆に所属し、有力な側近家臣になっていたことを示している。そのことからこの時点で、秀吉の所領は、数百貫文規模であったと推定される。

秀吉の兜と伝わる「一の谷馬藺兜」
秀吉の兜と伝わる「一の谷馬藺兜」東京国立博物館所蔵 出典:ColBase