3歳上の従兄弟と結婚したが…
「雪とは不思議なもの」
「(編集部註:千代が結婚した従兄弟の)雄一つぁんは寿座のねきの飲み屋へお行きるんでよ」と言って、この家の雇い人の一人が私に教えたのであった。寿座と言うのは、藪土堤にある芝居小屋のことで、この町で芝居がかかるのは、この寿座だけであるが、年中、かかるのではなく、月の間、半分くらいは空いている。それでも、小屋の前には飲み屋が四、五軒も店を出していて、白粉をつけた少女が酌をするとのことであった。
中学生がそんなところへ出這入りすることは禁じられているのであったが、帽子を懐の中に隠して、そっと暖簾をくぐるのは、なかなかイカすことなのであった。「雄一の寝間着は、炬燵の中へ入れておいたけえの」。伯母は息子の出掛けるのを見ると、いつでも、私にそう言うのであった。そんなところへ通って行く息子のために、寝間着をあたためておくと言うことがあるだろうか。しかし、毎晩のように、行く先も告げないで中学生が外出しても、この家では誰も咎めない。それはただ、そう言う習慣なのだろうと私は思うしかないのであった。
仲の良い伯母の家族に違和感
それにしても、この家の中の習慣は、川西の家のそれとは凡そ違ったものであった。食事どきには座敷の真ん中に、それは大きな食卓が一つ出て、大ぜいの家族がそれを取り囲んで食べるのであったが、ときには互いに食べ物をとり合ったり、大声で笑い興じたりしている有り様は、川西の家の、板敷きの台所に、一人一人の前に各々の箱膳をおき、声もなく食べている有り様に比べると、それは、愉しそうだ、などとは思われない、一種異様なものとして私の眼には映るのであった。そして、その瞬間に私の思うことは、「いま頃、うちではどうしているであろう」と言うことであった。
或る日の午後、私は学校の帰りに、あの鉄砲小路の家の方へ帰るために渡る筈の、錦帯橋を渡らなかった。この錦帯橋と言う橋は、日本中で誰ひとり知らぬものはない、名の知れた橋であるが、学校の往き帰りに、五つある反り橋の段々を上ったり下りたりして渡るのは、私にとっては何となく厄介に思われた。と言うのは、ついこの間まで私は、この錦帯橋を渡らないで、学校のある横山と言うところから、川岸に沿うて、そのまま、川西の家の方へ歩いて行けば宜かったからである。
実家に戻ると、暴君の父が急変
錦帯橋を渡らないで、私はどうする気であろう。「お母」と低い声で呼んで、私はうちの台所へ廻った。「やれ、千代さんかいの」と答えた母の声を、私はどう言う気で聞いたか。父は時計の間で寝ていた。「ああた、千代さんがおいでましたでよ」。父の声は聞こえなかった。父は私が鉄砲小路の家へ行ってから、ずっと寝ていたと言う。幾度も血を吐いたと言う。
「お父さま」と私は声をかけた。その顔はこの十日の間に、まるで変わっていた。眼窩は落ち窪み、骸骨のようであった。「足を撫でてくれい」と言った。鉄砲小路からなぜ戻ったかとも、早く往ね、とも言わなかった。そうだ。父が病気なのだ。私はこのまま、この家にいても好いのだと、私はそのときそう思った。父がこんなに病み衰えているのを見て、それを悲しむより、もう、あの、鉄砲小路の家へ帰らなくても好いのだと言うことが、何とも嬉しかったのを私は忘れない。
「足を撫でてくれい」と言った父が死去
翌日、私はこの父のために、阿品と言うところにあるお大師さまにお詣りした。阿品までは三里(約十二キロメートル)の道程がある。阿品の大根と言って、漬物にする大根の産地として名高いところであるが、いまでも田舎に帰って、この大根を見ると、あの昔、父のためにお大師さまへお詣りしたときのことを、私は思い出すのであった。
父が死んだのは、あけの年の二月の始めであった。三日前に大雪が降った。この地方では雪が降るのは珍しかったが、それも、こんな大雪は見たことがない、と言うことであった。
大雪の日、父が包丁を振り回した
この大雪が、死に瀕している父の脳裡に、何を考え出させたのであろう。誰もそばにいなかったほんのちょっとの隙に、父は台所にあった出刃庖丁を手に持って、往還さきににじり出たのであった。「寄るな、寄って怪我するな、寄るとどいつもぶった切るぞう」と言って、庖丁を振り廻した。あの、病みほうけた父に、どうしてこれほど力があったのか。ぎらぎらした日をうけて、庖丁が光った。見ると、雪の上に、父の裾から汚物が流れているではないか。
「誰か助けてください!」と叫んだ母
「やれ、誰方か助けてつかあされえ」。魂切るような声で叫ぶ母の声とともに、通りかかった沖ノ町の油屋の男衆が、父の体をひっ担いで、家の中へ入れてくれた。「お父さま、お父さま」と泣き叫んで、私も一緒に家の中へ這入ったが、このとき、もう、だらりと両手を下げた父の姿は、生きているものとは思えなかった。
雪とは不思議なものである。父の死んだあと、いまになると最早や七十年もの昔のことであるが、雪と言う不思議なもののために、あの光景の傷ましさは凡て消えて、何か、絵に描いたもののように、私の脳裡に残っているのは、あの瞬間の父は、こうも思っていたのではなかったかと言う、私自身の思いであった。私は父に代わって、あの瞬間の父を語ってやりたいのである。これは決して、自分の父に対する身びいきではなく、父そのもののあの瞬間の叫びだと言う気がした。
父が刃物で“本当に切りたかったもの”
父はあの瞬間に、あの刃物で自分の体を傷つけたかったのか。あのときの言葉通りに、寄って来る人をぶった切りたかったのか、いや、いや、そうではない。あの死の直前の狂気の瞬間に、父はこう言いたかったのではなかったかと、いま、八十四歳になった私は、まるでこの耳で聞いたことのように、父の胸の中が、はっきりと分かるような気がするのであった。「俺はいま死ぬ。この放蕩無頼の一生を、いま、この瞬間に、出来ることなら始めからやり直したい。人の世に定められた真っとうな生活を、もし出来ることなら、始めから踏み直したい」と絶叫しているのではなかったかと言うことが、はっきりと分かるような気がするのであった。
父が死んで、時計の間の父の寝床は片付けられた。父がいない。私も子供たちも、なかなかこのことが呑み込めなかった。カナリヤの鳴く声がした。「ひずりをとって来い」と命令する父の声が、いまにも聞こえて来るような気がした。ひずりとははこべのことで、小鳥の喜んで食べる、道端の草であった。カナリヤは貧しいこの家の暮らしの足し前になるもので、卵から孵化した雛の中に、よい種類のカナリヤがいるかいないか、父はよく知っていたが、母も子供たちも知らない。見よう見真似で世話をし、水浴びをさせてやるのが、せい一ぱいであった。
千代と5人の弟妹は父から解放された
「ありゃ、こいつらはくちばしをくっつけとるでよ」。一羽のカナリヤが口づけしているようなのを見て、子供の一人が言った。ふいに、あは、あは、と低い笑い声を立てた。この家の中に笑い声がする。思いもかけぬことであったが、誰もそれをとがめるものがないのを知ると、今度は大声を上げて、あはははは、あはははは、と続けて笑い転げるのであった。
しかし、そのことがあってからも、すぐにはこの家の習慣は変わらなかった。沖ノ町の方から、「東西、東西」と言うでこ廻しの太鼓の音が聞こえて来ても、子供たちは誰も往還へ駆け出すものはいなかった。以前そうであったように、よその子供たちも外からうちの子供に声を掛けようとはしなかった。それはほんの十日ほどの前の習慣と同じことであった。「うちじゃあ、見には行かんのじゃ」。子供たちは顔を見合わせてそう言っていたのに、ただ一人、長男の薫だけが、或る日、下駄をつっかけて、いきなり表へ駆け出して行ったのであった。

