放蕩の限りを尽くした宇野千代の実父
雨や雪の日、少女は藁草履を手に持ち、裸足で約1キロの道を歩いて小学校へ通った。
「足は濡れても腐らんが、草履は腐るけえの」
少女の父はそう言った。
修学旅行にも行けなかった。鉛筆は、握れなくなるまで使った。
連続テレビ小説『ブラッサム』のヒロインのモデルである作家・宇野千代。生涯に多くの恋愛と結婚を重ね、「自由奔放」の代名詞のように語られる。だが、少女時代の千代は、草履を履くことすら自分では決められなかった。育った山口県岩国の家は、自由とはほど遠かった。
裸足の登校の理由は家の貧しさだけで説明できない。父・俊次は、娘に草履を惜しませる一方で、自分の遊びには財産をつぎ込む人だった。
父は家の「時計の間」に座り、千代を呼びつけては鳥の餌を取りに行かせ、夜には酒を買いに走らせた。放課後に友達と遊ぶことも、近所に来た芸人を見に行くことも禁じられていた。それなのに父自身は料亭や遊郭へ出かけ、賭博で警察に捕まったこともある。
財産が底をつくと、実家の宇野酒造から毎月1日と15日に資金を送られる身となる。それでも父は競走馬を飼っており、新たにもう一頭買おうとしたところ、兄にたしなめられ、送金を止められると、怒りに任せて馬で兄の家へ乗りつけて大暴れした。
それでも理不尽とは思わなかった
千代は後年、随筆でこの父を「バルザックかドストエフスキーの小説の中にしか出て来ないような一種の奇人乃至狂人だった」と評している。
父の理不尽はそれだけではなかった。自伝『生きて行く私』にはこんな場面がある。父に命じられて従兄の家へ遊びに行った千代が、薄暗くなってから従兄に送られて帰ると、家の馬小屋の辺りで父が飛び出してきた。
「おどれ、こんとに暗うなるまで、よう男と歩いとったな」
そう言って、頰を打ったのだ。行けと言ったのは父である。だが、幼い千代は理不尽だと思わなかったという。
千代はこう振り返っている。「理由は分からないながら、私は父を恨むどころか、父の言葉をそのままに承認した」。支配とは、殴ることだけでなく、殴られた側に「自分が悪い」と思わせることでもあるのだろう。
朝ドラでは国仲涼子演じる継母の涙
この家に、もう一人の大人がいた。若い継母である。継母にはやがて5人の実子が生まれたが、継子の千代が軽んじられることはなかった。むしろ逆で、いただき物のおはぎを弟妹たちが食べたがっても継母は言った。
「まアお待ちい。姉さまがお戻りてから分けて上げるけえ」
千代のほうも、弟妹をよく世話した。後年の回想には、「私の小さい背中は、おしっこの乾く間がなかった」とある。
ただ、若い継母は夜に泣くことがあり、一度は実家へ逃げ帰っている。泣いて彼女を追う千代を、当時家にいた女中の一人が背負い、継母の実家まで連れて行った。彼女はのちに、千代にこう語っている。
「あのとき千代さんが、わしを追うておいでんかったら、わしはこの家には戻らんかったかも知れんでよ」
継母にも、逃げたいほどの苦しさと、戻るか戻らないかの選択があった。
やがて病床の父は、女学校に通っていた千代と、あの夕暮れの相手である従兄との結婚を決める。縁組みは、暗くなるまで男と歩いたことへの罰であるかのように言い渡された。行けと命じたのも、罰を科すのも父だった。それでも千代は、「私は何の抵抗もなく、ただ『はい』と答えただけであった」と振り返っている。嫁入りの支度の際、髪を結ってくれる継母の目に、鏡越しに涙が光った。
たった10日で終わった初婚
「私は手にほんの小さな荷物を持っていたが、その中には、着替えの着物と学校道具が入っているだけであった」
後年、「恋多き女」と呼ばれる人の最初の結婚は、自分で選んだものではなかったのだ。荷物に学校道具が入ったままの、実感の乏しいものだった。
嫁いで10日ほどしたある日の午後、千代は学校の帰りに、錦帯橋を渡らなかった。その橋を渡れば、嫁ぎ先の鉄砲小路に着く。足は川沿いに、川西の実家へ向かっていた。父は病み衰え、幾度も血を吐いていた。娘に足を撫でるよう頼んだが、なぜ鉄砲小路から戻ったのかと問うことも、早く帰れと命じることもなかった。このまま、この家にいてもよいのだ。そのときの気持ちを、自伝は隠さず書き残している。
「父がこんなに病み衰えているのを見て、それを悲しむより、もう、あの、鉄砲小路の家へ帰らなくても好いのだと言うことが、何とも嬉しかったのを私は忘れない」
その千代が、翌日には、三里、約12キロ離れた阿品のお大師様へ、父のために参っている。結婚から逃れたいこと、父を恐れること、父の快復を祈ること。少女の中で、三つの感情が同居していた。
千代が鉄砲小路の家で暮らしたのは、ほんの10日ほどだった。夫は千代を好まず、夜ごと外泊を重ねた。千代は夫の日記を盗み見て、自分が嫌われていることを知ったという。父の看病を口実に、千代はそのまま実家に留まり、以後は川西の家で継母や弟妹と暮らして、女学校へ通い続けた。
父の死は「何となく嬉しかった」
父が亡くなったのは1913年2月8日、57歳。
「父親が死んだ。私は涙を滝のように流したがやはり何となく嬉しかった。私はもうどんなことでも出来る」
涙と解放感。千代は後年、随筆にその時の心境をどちらも隠さず書き残している。もっとも、家の空気はすぐには変わらなかった。
「父が死んで、時計の間の父の寝床は片付けられた。父がいない。私も子供たちも、なかなかこのことが呑み込めなかった」
そうした中、変化は思いがけない形でやってくる。
ある日、飼っていたカナリヤがくちばしをくっつけているのを、子どもの一人が見つけて笑った。小さな笑いだった。だが、誰もとがめる者がいないと分かると「今度は大声を上げて、あはははは、あはははは、と続けて笑い転げるのであった」
父の死を笑ったのではない。きっかけは鳥の仕草にすぎない。普通の家なら何でもないその笑い声が、この家では事件だった。
家の中で笑えるようになっても、自由が完全に戻ったわけではない。たとえば、父に禁じられていた芸人見物である。近所に芸人が来たとき、子どもたちは互いに「うちじゃあ、見には行かんのじゃ」と言い合って、すぐには出て行かなかった。最初に飛び出したのは長男の薫で、ほかの子どもたちはそれに続いた。命令した本人が死んでも、習慣は命令より長生きする。
継母の意外な趣味
父の死後、変わったのは子どもたちだけではない。継母は千代を浮かれ節(浪花節)を聴きに連れて行くようになり、家事をしながら自分でも歌った。千代はこう書いている。
「その唄声もまた、この家の中の解放を意味していたのである。私もまた一緒に、その唄声に唱和していた記憶がある」
自伝によれば、継母は義済堂という糸とり工場へ働きに出た。暗いうちに起き、前夜の冷たいご飯を弁当箱に詰め、子どもたちを寝かせたまま出かけた。のちに、千代が学費のために苦労をかけたと詫びると、彼女の答えは意外なものだった。
「何の、お前の学校のためかいの。わしゃあ、唄を歌うのが好きでのう。いつでも糸をとりながら、声を上げて唄を歌うたもんじゃが、みんなが、わしの声に聞き惚れてのう、それが自慢で、糸とりに行ったんでよ」
少なくとも千代は、継母の働く姿を、娘のための犠牲としてだけは描かなかった。彼女の言葉を、娘への気休めとも受け取らなかった。「しん底、自分の唄が自慢で、それで義済堂へ通ったのに違いない、と、いまでも私は信じている」
父の死で得た文学を楽しむ自由
継母の楽しみは、物語にも及んだ。新聞を持って「錦見」という煮売り屋へ行き、年老いたお内儀に『嫁ケ淵』『里見八犬伝』などの続き物を、ときには節をつけて読んで聞かせた。「いつでも、その日の新聞の読み賃として、売り物の肴を丼に入れてくれることもあり、ときには、銭をくれることもあった」そして「帰りの足は軽かった」。娘が原稿料で身を立てるより前に、この家では、物語を語ることが楽しみと報酬に結びついていたのである。
継母が物語を読んで聞かせていたころ、千代はもう、書く側にいた。
千代が女学校に入ったのは、父の死の3年前、1910年である。学校の記録によれば、1年目の作文が早くも校友会誌に載り、成績や精勤で表彰される優等生でもあった。書くことは、父の存命中に始まっていたのである。
やがて、その優等生が、友人と回覧雑誌を作っていたことを教員に見つかって注意されると、今度は学校の外の『女子文壇』に変名で投稿した。父の死がもたらしたのは、厳しい父の目を恐れずに文学を楽しめる自由だった。
月給8円の使い道
女学校を出た千代は、祖母の口利きで代用教員になる。月給は8円。電車には乗らず、約4キロの道を歩いて通った。初めての給料袋を手つかずのまま差し出すと、継母は「ありゃ、こんとに、みな、わしが貰うてもええかいの」と言った。その目に涙が浮かんだ。美談になりそうな場面だが、千代は美談にしない。
「私は母に月給を渡すことが嬉しいから、それをしただけのことであった」
やがて継母に渡す額は、ほかの使い道ができるにつれて減っていく。幼い頃から父に肌の色をけなされていた千代は、教員時代に化粧に目覚め、月給8円のうち約1円50銭から60銭を化粧代に使うようになった。自分の稼ぎを、自分の顔に使う。この家に来た自由は、抽象的な理念ではなく、給料袋の中身の配分の変化としてあらわれた。
晩年、父の放蕩について書き進めるなかで、千代は自分との共通点に気づき、こう記している。
「ここまで書いて来て、おや、この父のことは凡て、この私のことではなかったかと、思わず私はぎょっとした。私も賭事が好きで、そして、若い頃から自分のしたいと思うことは何でもした」
裸足で学校へ通わされた娘は、父を恨むだけの人にも、父を美化するだけの人にもならなかった。恐れた相手との共通点を、目をそらさずに書くようになった。「自由奔放」という四文字ではとても説明しきれない人である。
【参考文献】
刑部芳則『宇野千代 昭和モダニズムの伝道者』(NHK出版新書)
宇野千代『生きて行く私』(角川文庫)