「風、薫る」(NHK)のモチーフ、看護婦のパイオニアである大関和は20代で離婚後、生涯、再婚することはなかった。作家の青山誠さんは「和は感情の激しい性格で、10歳下の社会活動家と彼の収監中に恋に落ちたが、周囲の猛反対にあった」という――。

※本稿は、青山誠『大関 和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』(角川文庫)の一部を再編集したものです。

大関和
提供=医療法人知命堂病院

看護の第一人者として認められたが…

(新潟の高田から東京へ戻った大関和は)眠る時間もないほど忙しい。だが、この頃はまたプライベートのほうでも、かなり忙しかったようで……タフさには驚かされる。

和は恋をしていた。その相手というのが、高田の演説会で出会った木下尚江。和にひと目れした木下は演説会が終わってしばらくすると再び県境を越えて高田を訪れている。その頃、彼女はすでに知命堂病院の看護長に就任していた。木下が病院を訪ねて来ると、和は院内をひと通り案内してまわったという。婦人科研究室では壁面に貼られた女体の解剖図を指差し、ひとつひとつの臓器を詳しく説明した。

図太い性格で多少のことで物怖ものおじしない木下も、このときばかりは、

「困ってどうしようかと思ったよ。だが、彼女の真剣さには敬服した」

と、親友の相馬愛蔵に語っている。

新潟で接近してきた10歳下の男性

木下がなぜ、わざわざ高田まで来て自分を訪問したのか。その意図を察していれば、和も解剖図を前に際どい部位を指差しながら説明するようなことはしなかっただろう。

残念ながら、他人の感情や場の空気が読めない彼女に、それを察しろというのは無理な話だ。

この後も木下は幾度か和を尋ねて来たのだが。しかし、和は10歳ほど年下の木下を恋愛対象として見ておらず、彼がしきりに送ってくる好意のシグナルにも気がつかない。ただの知人。それ以上の関係に発展することはなかった。

社会活動家の木下尚江と恋に落ちる

木下は和と出会った後に、松本の教会で洗礼を受けていた。また、社会運動への傾倒もますます強くなっている。明治29年(1896)には『信濃日報』の主筆となり、普通選挙実現のために活動していた。しかし、目立ち過ぎたのが災いしたようである。

県議選挙の疑獄事件に巻き込まれ、恐喝詐欺の疑いで逮捕される。禁錮きんこ8カ月、罰金10円の判決を受けたのだが、これを不服として控訴。再審が東京でおこなわれることになった。

木下尚江
木下尚江(1869~1937年)の肖像写真(写真=国立国会図書館デジタルコレクション/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

裁判を受けるために木下は東京へ移送されて鍛冶橋かじばし監獄に収監される。和が群馬や埼玉の隔離所で赤痢患者の看護に奔走していた頃だったが、木下が東京の監獄にいるという話を聞きつけるとすぐ面会に駆けつけた。その後も菓子や書物などの差入れを手にして頻繁に監獄を訪れるようになる。

収監された木下の元へ通う日々

“ただの知人”でしかないのだが、情に厚い和が知人の苦境を知らぬ顔で無視できるわけがない。それが、やがて恋愛感情に発展してゆくのだが、

「女史は木下氏の災難のことをきくや、大いに義憤を起し、またその熱情から止まり得ぬものがあって、度々鍛冶橋の未決監みけつかんを訪うては思いやり深い差入れ物をする。獄中の氏の感激はやがて思慕の情となり、女史もまた持ちまえの熱烈な同情が昂じて、遂に両者の激しい恋愛、そして出獄の上は結婚という絶頂にまで達した」

と、木下の親友である相馬愛蔵そうまあいぞう(新宿中村屋の創業者)とその妻・黒光の著書『穂高高原』にも、ふたりの関係が恋愛へと発展していった経緯にふれた記述がある。

「激しい恋愛、出獄の上は結婚」

しかし、監獄の面会時間は短く、看守の監視のもとさく越しの面談では手を握ることもできない。そんな状況でただの知人から恋人同士に関係が発展し、木下が出獄すれば結婚する約束までしていたのだから驚く。

立ちはだかる障害が、愛を盛りあげる最高の演出装置になることもあるようで……どうやら、和と木下もそのパターンか。

明治31年(1898)12月7日、木下は無罪判決を下されて釈放された。しかし、獄中で約束した結婚は実現しない。

愛蔵は最初からこの結婚には反対だった。本人にはまったくその気はなかったのだが、結果的にふたりをめぐりあわせた愛のキューピッドになっている。それだけに、こうなってしまったことに責任を感じていた。

前列左から安部磯雄、幸徳秋水、木下尚江、片山潜
前列左から安部磯雄、幸徳秋水、木下尚江、片山潜。1901年(写真=『アサヒグラフ』1949年3月2日号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

木下は女郎を身受けして同棲

色恋に潔癖な愛蔵は、女性関係にだらしない木下に苦言を呈することが度々あった。木下は何事にも熱情的な男だが、女性にもまた同様で惚れやすい。図太い性格はこういったときにも発揮される。好きになればぐいぐいと迫って距離を詰めようとする。じつは和にアプローチしていた頃も、廃娼はいしょう運動で知りあった女郎を身受けして同棲していたとも言われる。

和が前夫と離婚したのはめかけの存在が許せなかったからだ。そんな木下の前科を知っていたのだろうか? 男女関係に潔癖な彼女には許せないことだと思うのだが……。

ふたりの関係がハッピーエンドで終わるはずがない。木下の女癖の悪さが、いずれ破局の要因になると、愛蔵は予想していた。尊敬する和が傷つき悲しむようなことにならぬよう、木下を必死に説得して結婚を思い留とどまらせようとした。

そう考えていたのは愛蔵だけではない。他にもふたりを知る友人や知人たちの多くがこの結婚に反対した。

問題は木下の浮気癖だけではない。いまや彼女の存在は医学界のみならず広く世に知られている。それだけに10歳も年下の男と結婚したとなれば、無責任な噂が流れて彼女の名声が傷つけられるかもしれない。それを杞憂きゆうする声も多かった。

周囲は和の名誉を思って猛反対

出獄したとき、木下はすぐにでも和と会って求婚する気だった。しかし、燃えあがっていた恋心は、愛蔵をはじめとする周囲の者たちの猛反対にあって勢いをすっかりがれてしまう。監獄生活で極限まで追い込まれた精神状態のときとは違って、自由の身となり友と酒を酌み交わすうちに心はほぐれ、冷静に物事を考えられるようにもなっている。結婚によって和や自分が被る不利益にも思いが及ぶようになると、

青山誠『大関 和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』(角川文庫)
青山誠『大関 和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』(角川文庫)

「やっぱり、無理だ」

求婚を断念する。木下も30歳になっていた。人生において恋愛よりも優先すべきことが多くなっている。もう激情だけで突っ走れるほど若くはない。恋は終わった。

出獄したらすぐに求婚してくるはず。和もまたそう思って待っていたのだが、いっこうに音沙汰おとさたがない。焦じれていたところに愛蔵がやって来て、自分や周囲の者たちが木下を説得して求愛を断念させたことを話し、出過ぎた真似をしたことも謝罪した。

10歳の年齢差を認めてしまえば、燃える恋心も冷めてしまう。だから、その現実には背を向けて見て見ぬふりをしていたのだが、愛蔵をはじめ周囲の者たちからそれを指摘されて、自己暗示の魔法が解けてしまったか。

40歳を超えての初恋だったか

「わかりました。これからは、私も木下さんを遠くから見守るだけにしておきます」

和もまた淡々とした表情で恋の終わりを宣言した。

渡辺福之進と離縁して上京して以来、ここまで和に浮いた話はない。福之進との結婚も親が決めた縁談で、親子ほども年齢の違う相手に恋愛感情を抱くことはなかった。このとき40歳を超えていたのだが、じつはこれが彼女の初恋だったのかもしれない。

もうひとりの男性とも結婚に至らず

そして、木下との結婚を断念した後すぐに、またひとつ和の恋バナが出現する。

40代の頃の和は、その人生において最も恋多き時代だった。『穂高高原』にはそのもうひとつの恋愛についてもふれた箇所がある。

「女史が四十才の頃再び対象におかれた男性があり、女史はその結婚を希望してやまぬのに、この度もまた島貫兵太夫氏等の反対にあい、畳をたたいてその無理解を口説いた際など、そのひたむきな涙を見ては少女の初恋のような純情が感じられて、どうしてこの人はこうなのかと実際こちらは弱り切ったと、これは島貫氏の述懐であった」

ここに書かれている島貫兵太夫しまぬきひょうだゆうは、愛蔵や木下と同年代の牧師で和とも親しい人物だった。牧師という立場から恋に悩む彼女にアドバイスしていたようなのだが、どうやら、また木下と同様に問題のある男だったのだろうか。和は男運が悪いのかもしれない。

島貫兵太夫
島貫兵太夫(矢部信太郎編『近代名士之面影』第1集〔竹帛社〕、大正3年、国立国会図書館デジタルコレクション