※本稿は、青山誠『大関 和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』(角川文庫)の一部を再編集したものです。
新潟から東京へ、和は雅と再会
和が新潟から東京に帰ってきてから数日後、明治29年(1896)4月18日に宣教師マリア・ツルーが息を引き取りその生涯を終えた。大関和は帰京してすぐに衛生園を訪れてマリアを看病し、恩師の最後を看取っている。
そして、悲しみに浸る間もなく東京での新しい活動が始まった。鈴木雅が創設した東京看護婦会の運営に参加することになる。同年には東京看護婦会に「東京看護婦講習所」が開設され、和はその講師にも就任した。
講師には看護の知識や経験、教え上手であることが求められる。が、それよりもっと大切なものがある。看護婦をめざす娘たちが憧れ目標とするような魅力的な人物であること。カリスマ性のようなものだろうか。人を教え導くには、それが不可欠の資質だと雅は思っていた。残念ながら自分にはそれがないという自覚がある。そして、この条件に最も適合する人物といえば……すぐに和の顔が思い浮かぶ。
彼女が東京に帰ってきたら看護婦養成を本格的に始めることにしよう。それは、ずっと以前から雅が抱いていた構想だった。
東京看護婦講習所は、看護婦によって創設された日本初の養成所として医学界でも注目されたという。
本格的な看護婦養成学校で教える
当時は修業年限2年という看護婦学校が大半だが、この学校の修業年限は3年と長い。1年目の前期6カ月で看護学や救急療法、防疫消毒法、機器の扱い方など10科目の講義をおこない、残りの半年を実地訓練にあてる。2年目からは実際に病院や家庭に派出させて、ベテラン看護婦の指導のもと現場での経験を積ませるというもの。卒業時にはどんな現場にも適応できて、即戦力として使える看護婦を育成することをめざした。
和は講師と兼任して派出看護婦としても働いた。維新から30年が過ぎたこの頃になっても「家老の娘」という和の出自は羨望や憧れを抱かれる。
この出自ゆえに信頼を得ることができる。派出看護婦の顧客の多くは富裕層で占められるのだが、上流階級には素性の知れない者を屋敷に入れることを敬遠し、派遣される看護婦の素性にこだわる傾向があった。士族の出身なら合格ライン、和ならどこでも大歓迎される。
維新の元勲、後藤象二郎を看護
看護婦講習所で講義をおこないながら、オファーがあれば看護婦として派遣先へ赴く。東京に戻ってから3カ月後には、維新の元勲で政府の重職を歴任した後藤象二郎から依頼を受けた。心臓を患い箱根で静養する後藤に付き添うことになる。せっかく帰京したのだが、これでまたしばらく家族と離れて暮らすことになってしまう。家でゆっくりしている間がない。
母の哲は還暦を過ぎても元気で家を切り盛りしている。それがありがたかった。この母がいるから、和も好きな仕事に没頭できる。子どもたちの教育についても、哲に任せきりにしていた。和が娘だった頃には、母から稽古事や家事などを厳しく躾けられたという記憶がある。しかし、孫には甘くて過保護だった。
息子は現在の東京大学に合格
それもあってだろうか、長男・六郎は意気地がなく依頼心が強い。和にはそれが少し気になっている。それでも学業成績は優秀、難関の旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)にも合格した。高校卒業後は東京慈恵医院医学校(現在の東京慈恵会医科大学)で学んでいる。
また、娘の心のほうも東京慈恵医院看護教育所(現在の慈恵看護専門学校)に入学して看護婦をめざすようになった。
看護婦になってからは一家団欒の時間もとれず、あげくに長期間の単身赴任。我ながら母親としては失格だと思う。寂しかっただろうけど、子どもたちは和の仕事の大切さをよく理解して、尊敬や憧れの念を抱くようになり、自分と同じ道を歩もうとしている。それが誇らしく嬉しかった。
群馬で集団赤痢が発生、現地で看護
日清戦争後は、関東各地にも赤痢や腸チフスなど帰還兵が持ち込んだ伝染病が蔓延していた。和が東京に戻ってきた年の夏には群馬県の惣社町で集団赤痢が発生し、東京看護婦会にも出動要請があった。このときも和は率先して出動を志願。看護婦講習所の実習指導も兼ねて、2人の看護婦を連れて現地に向かうことにした。
高田の避病院のときと同じように、まずは徹底した感染対策をおこなう。患者を収容していた隔離所を隅々まで消毒し、施設内の環境を常に清潔に保つよう細心の注意を払いつづける。また、腹痛に苦しむ患者たちには腹を温めて血行を促進する温罨法や、当時の日本ではまだ珍しい輸液浣腸などを使って苦痛を緩和する措置を施した。
致死率を5%以下に抑えた「奇跡」
これらが効果を発揮し、100名を超える患者のうち死者はわずか5名に抑えることができた。つまり、致死率は5%以下ということになる。
当時としては「奇跡」という言葉があてはまるほどの低い数字だった。ちなみに、同年には全国で8万5876名の赤痢患者が確認され、そのうち2万2356名が亡くなっている。有効な抗菌薬のなかった時代、赤痢患者の致死率は25%前後、感染すれば「4人に1人は死ぬ」というのが定説化していた。それだけに、和が惣社町隔離所で起こした奇跡は近隣の自治体や医学界から注目されたという。
翌明治30年(1897)になっても赤痢の流行は収まらず、夏になるとまた各地で集団感染が起こり、前年を上回る約9万人の患者が発生した。和は前年に引きつづき、この年も群馬県九十九村(現在は安中市の一部)に出張して、隔離所に常駐しながら患者の看護や感染対策に努めている。
また、翌年の明治31年(1898)にも、埼玉県加治村(現在は飯能市の一部)の隔離所に出張して指導をおこなった。たんなる看護婦ではなく、感染症対策のエキスパートとして頼られる存在になっていた。
感染症対策のエキスパートとして
和が陣頭指揮した隔離所ではどこも、二次感染を起こすことなく、他所より流行の収束が早かった。また、回復して生還する患者も他の避病院や隔離所よりは格段に多く、致死率は惣社町隔離所のときと同様、常に5%程度に収まっていたという。こうなるともう奇跡でなく必然。和の手腕によるものだと誰もが認めるようになる。
和の名声は高まり、以前にも増して看護のオファーが殺到した。有名になってもその性格は変わらず、人から頼られると断ることができない。窮状を目にすれば、我が身を犠牲にしても助けたくなる。休日を返上して働き、ますます家に居られる時間は少なくなった。
「働き過ぎですよ、少し休みなさい」
雅からよく注意されるのだが、やめられない。
また、和には看護婦講習所の講師という大切な仕事もある。雅が気を遣って和の負担を軽くするために、他にも4人の経験豊富な看護婦の専任教員を雇い、また、帝国大学病院の医師2名も嘱託として教鞭を執るようになっていた。しかし、日本初のトレインド・ナースである大関和に憧れて、その教えを受けるために入学してきた生徒は多い。彼女らの期待を裏切るようなことはしたくないと、時間の許す限り教壇にも立ちつづけた。
