今国会での皇室典範改正への動きが最終局面をむかえている。皇室史に詳しい島田裕巳さんは「審議中の皇室典範改正案には、『愛子天皇をいかにして阻止するか』という隠された目的がある」という――。

愛子さまは泣いているのではないか

「盃に春の涙を注ぎける」

これは、愛子内親王が卒論で取り上げた平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての歌人、式子内親王の歌の前半部分である。

最近の愛子内親王の脳裏には、この歌がよぎるのではないだろうか。すでに季節は夏に変わったが「春の涙」、そんな気持ちにさせる今の国会での議論である。

政治家の人たちは、「いったい私をどこに向かわせようとしているのだろうか」。愛子内親王がそのような思いを抱いても不思議ではない。もしかして「孤高のプリンセス」に追いやろうとしているのではないのか――その思いに至ったとき、涙がこぼれるのも自然なことである。

愛子内親王の重要性は日増しに高まっている。すでに〈愛子さまは天皇陛下の合図で入ってきた…島田裕巳「愛子さまを中心に据えるという天皇家の意思が見えた瞬間」〉で指摘したように、天皇家では愛子内親王を中心に据えようとする方向で進んでいる。

それにつれ、愛子内親王が単独で公務などにあたる機会が増えている。

天皇、皇后両陛下の長女・愛子内親王殿下(2022年)
天皇、皇后両陛下の長女・愛子内親王殿下(2022年)(写真=外務省/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

天皇家「唯一の子」の重圧と孤高

これは公務とは言えないが、6月8日、愛子内親王は池袋の東京芸術劇場で開かれたウィーン少年合唱団のコンサートを鑑賞している。

愛子内親王自身がウィーン少年合唱団のコンサートを訪れたのは2017年以来のことなのだが、そのときは一家での鑑賞であった。近年は、天皇皇后が夫妻でこのコンサートを訪れてきた。

今回は愛子内親王単独で、となった。それは、皇居内で開かれる雅楽鑑賞会に、はじめは天皇とともに訪れていたのが、やがて単独で訪れるようになったケースと似ている。

皇族数が減少するなかで、それぞれの皇族の負担は増している。天皇ともなれば多忙を極めている。できるところは愛子内親王に任せたい。今回もそうした意味があるのではないだろうか。

改めて言うまでもなく、愛子内親王は、現在の天皇家に生まれた唯一の子である。

ほかに兄弟姉妹がいれば、役割の分担はいくらでもできる。だが、子どもは自分一人であり、それができない。しかも、天皇家を担っていかなければならないという重圧が愛子内親王の双肩にかかっている。「孤高のプリンセス」という表現が浮かぶのも、それゆえにりんとした雰囲気を漂わせているためである。

しかし、このところ続いている国会での議論は、愛子内親王のそうした立場をまったく理解しないものになっている。

愛子天皇待望論に焦った保守派の法改正

国民の間では、今までになく「愛子天皇」待望論が高まりを見せているわけだが、国会で提起されている旧宮家からの養子案などは、「愛子天皇をいかにして阻止するか」を隠れた目的にしている。そうした認識が、最近では広く共有されるようになってきた。

秋篠宮家に悠仁親王が誕生する前の時点で、いったんは愛子内親王が天皇に即位する方向で皇室典範の改正が行われようとした。

それゆえに保守派は焦り、そこから養子案が提起されることになったのだが、国会での議論では、とりまとめの最終段階になって、養子に入った男性の子どもには、それが男子であれば「天皇になり得る可能性がある」とされるようになった。高市首相が7月6日の参院決算委員会で、そのように発言している。

愛子内親王にはその資格は与えられていない。にもかかわらず、まったく皇室と関わることなく生活してきた一般国民には、旧宮家につらなるという理由だけで、それが与えられようとしている。

ここからは仮に、皇室典範が与党の方針どおりに改正され、旧宮家からの養子が可能になり、なおかつ、女性皇族が結婚後もその身分が保持できるようになった場合を想定して話を進めたい。

未来の「新年一般参賀」で起きること

イメージが湧きやすいように、正月の新年一般参賀の場面で考えてみることにしよう。

2019年1月2日、平成最後の新年一般参賀
写真=iStock.com/Tom-Kichi
※写真はイメージです

いったいその“未来の一日”がいつになるかはともかく、皇居の宮殿には天皇や皇族が勢ぞろいし、そこに訪れた国民に対して誰もが手を振っている。

そのなかには愛子内親王もいて、大きな注目を集めるだろうが、一方には、どこかの宮家に養子として入った男性がいて、その傍らには、養子に入った後に結婚した女性がいる。

その女性の隣には、4~5歳ほどの子どもが立っている。それは男児であり、すぐそばに並んだ悠仁親王に次いで、皇位継承の資格は第4位である。

愛子内親王はそこから少し離れた位置にいるかもしれない。あるいは、これも十分にありそうなことなのだが、その男の子の手をとって、参加者にむかって手を振らせるかもしれない。

その光景を目撃した一般参賀の参加者からは、拍手が湧く。「万歳」の声も上がるが、それはいったい誰に向けられているのだろうか。

悠仁親王に次ぐ皇位継承資格を持つ男児に対してなのか、それとも孤高のプリンセスに対するものなのか。それは、歓声を上げる人々にもはっきりとはわからないかもしれない。

もっとそれが、如実に示されることがある。

奇妙な現実が起きてしまう皇室典範改正

想像を続けよう。

実は、その時点で、愛子内親王は結婚しており、子どももいる。けれども、夫や子どもには皇族の資格が与えられず、一般国民のままなので、一般参賀の際に、天皇や皇族の列に加わることはできない。

夫と子どもは、こっそりと参加者のなかに加わっていて、夫は子どもに対して、「あれがお母さんだよ」と声をかけているかもしれない。だが、参加者のなかに、それに気づく人もいない。夫と子どもは、決して表舞台には出てこないからだ。

「そんなことがあり得るのか」――多くの人たちはそう思うであろう。

しかし、今国会で進められている方向で皇室典範が改正されれば、それが現実になる。

養子に入った男性のもとに生まれた男の子には将来の天皇への道が開かれ、愛子内親王は世にも稀な、奇妙な、家庭生活を送るしかなくなるのだ。

一人っ子の場合、周囲に兄弟姉妹がいないので、日頃一人遊びをするようになるし、空想癖も強まっていく。一人っ子として育った愛子内親王であれば、そんな想像力をたくましくすることがあるかもしれない。式子内親王の「涙の歌」が頭をよぎるのは、その瞬間である。

国際親善の場でも生じる違和感

そうした奇妙な状況は、愛子内親王が国際親善のために海外を訪れたときに、さらに明確になっていく。

すでにラオスを単独で訪問し、今年の秋にはシンガポールを訪れるであろうが、その先にはヨーロッパ訪問が待っている。

皇族が結婚していれば、夫婦や一家での訪問になるが、夫や子どもが一般国民のままであれば、同行は難しい。同行したとしても、受入先の相手国は、その皇族と結婚した一般男性や子どもをどのように扱ったらいいのか、大いに困惑するに違いない。

そんな事態が予想される以上、愛子内親王は、独身時代と同じように、単独でヨーロッパを訪れるしかない。

ヨーロッパを訪れるとすれば、王室のある国が中心になろう。イギリスであれば、国王は男性で、次の代のウィリアム王子も、さらに次のジョージ王子も男性である。そこでは、愛子内親王の特殊な立場は目立たない。

だが、今回、天皇皇后夫妻が訪れたオランダやベルギーになると、長子が継承するように憲法が戦後改正されており、次代は女王が誕生することになっている。

オランダ王位継承第1位のカタリナ=アマリア王女(2024年)
オランダ王位継承第1位のカタリナ=アマリア王女(2024年)(写真=Richard Broekhuijzen/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

愛子内親王が結婚後に訪れる頃には、すでに同年代の王女は王位に就いており、結婚もしているであろう。当然、現地のメディアは、自分たちの国の女王や王女と愛子内親王を比較する。ヨーロッパでは、王室の女性が結婚した相手も王族の一員になる。その間に生まれた子どもも同様である。

ところが、日本ではそうはなっていない。

「愛子天皇」阻止に走る麻生副総裁

そのとき、愛子内親王は「孤高のプリンセス」として報じられるだろう。

「なんと不思議なあり方ではないか。不可思議な国ではないか」。そんな報じられ方をして、それが日本に伝えられたとき、私たちはそれをどう受けとっていいのか、困惑するしかなくなる。

こうした「未来予測」について、皇室典範改正に邁進する自民党副総裁の麻生太郎氏などが気づいたとしたら、いったいどういうふうに考えるだろうか。

おそらく、そんなことはあり得ない話だと、いっさい無視するに違いない。とにかく今は、「愛子天皇」の実現を阻止するために旧宮家からの養子の道さえ開いておけばいい。その思いだけで突っ走っているのである。

自民党役員会に向かう麻生太郎副総裁=2026年6月29日、国会
写真提供=共同通信社
自民党役員会に向かう麻生太郎副総裁=2026年6月29日、国会

ここまで愛子内親王が結婚することを前提に話を進めてきたが、今の方向で皇室典範が改正されたら、皇族の身分を保持した女性皇族が結婚するのは、ひどく難しくなる。

女性皇族には住民票が与えられ、スマホの家族割も可能になると説明されているが、そんなことが利点になるはずもない。

そもそも、どこに住民票を置くことになるのか。それが想定されてもいないし、準備もされていないのだ。

要は、愛子内親王には一刻も早く結婚し、身分保持を選択せずに、皇室から出ていってほしい。そういうことだろう。そうなれば、「愛子天皇」待望論はしずまるからだ。

皇室典範改正に潜む政治家の本音と欲

そうなると、皇族数の確保という当初の議論が、まったく違う方向にむかってしまったことになる。

麻生氏などの本音は、皇室が量の面でも、重要度においても弱体化し、天皇が憲法で規定された国事行為を果たしさえすれば、それでいいということなのであろう。

天皇や皇族が公務にはげみ、国民との間の絆を深めていくことは、自分たちが政治を行う上で邪魔だ。そうした意識と権力欲が麻生氏などの政治家に働いているようにしか思えない。

だが、たとえ愛子内親王は結婚して皇室を離れたとしても、「愛子天皇」待望論が消滅することはない。

何しろ、すでに何代も一般国民として生活してきた人間が、皇族に復帰する道が開かれようとしているからだ。今回の無理な改正は、これまでの伝統を根本からくつがえすものであり、原則が失われている。見直しの必要が付帯事項にも含まれるわけで、将来の改正はむしろ容易になった。無体な法改正が、皮肉にも自滅し、未来の道をつくることになったのだ。

どんな未来になっても、いついかなる時でも愛子内親王は、皇室に戻れる。その子どもも同じなのである。その時、どれだけ大きな歓呼の声が上がるものだろうか。麻生氏らが恐れているのは、そのことなのである。