政争の具となってしまった皇室典範改正
皇室典範の改正をめぐる動きは、今や政治上の争いの様相を呈してきた。
当初は「静謐な環境」での議論が強調されたものの、今や、それとはほど遠い状況にある。その典型が、連立を組む自民党と維新の会とのあいだで改正案に合意がなされる直前、維新の会が異議を唱えたことである。
維新の会は、女性皇族の結婚後の身分保持に反対するとともに、旧宮家からの養子について「15歳以上とする年齢制限はおかしい」とかみついたのだ。結局、数に勝る自民党に屈し、維新の会は、改正案の成立を優先するとして、自分たちの考えを取り下げた。
すでに〈「愛子さまと結婚する人ない」発言でバレた…島田裕巳が読み取った「自民党の強い焦りと男系男子の無理筋」〉で述べたように、政府・自民党の側は、最後の最後になって、養子として入った男性には皇位継承の資格を与えないものの、その子どもには男の子であれば、それを与えると言い出した。
その経緯からすると、養子に入る人物の目処が立っているように思えるのだが、維新の会のほうは別の人物を想定してきたようだ。はっきりしているのは、誰を養子として皇室に入れるかで、2つの勢力が権力闘争をくり広げたことである。まるでそれは、藤原氏が摂関政治を推し進めた平安時代を思わせる。あの時代なら、それに伴って血も流されたであろう。
麻生太郎氏サイドの隠された思惑
そのせいか、皇室典範改正の動きをリードしてきた自民党の副総裁、麻生太郎氏は藤原氏にたとえられるようになってきた。
その先鞭をつけたのが、政治学者の御厨貴氏である。『文藝春秋』7月号での作家の林真理子氏と元首相の野田佳彦氏との鼎談で、「三笠宮寬仁親王妃家に養子が取られたら、麻生さんが天皇の外戚になり、平安時代の藤原氏のようになる」と発言した。
三笠宮寬仁親王妃家の信子妃は麻生氏の実の妹である。藤原氏は、その頂点を極めた藤原道長が典型だが、娘を朝廷に嫁がせ、天皇との間に生まれた子どもを天皇に即位させることで権力基盤を築き上げた。
その再現だというわけだが、最後の最後に、木原稔官房長官が、養子として入った男性の子どもは男の子なら皇位継承の資格を有するとしたことで、御厨氏の指摘が現実味を増してきた。
与党の間で合意はできたものの、今回の皇室典範改正案に反対の声が多く上がっているのも、底流に養子の子どもをゆくゆくは天皇に即位させようという、麻生サイドの思惑が隠されてきたからである。
そこには、麻生太郎氏の野望がある。
皇室との関係から生まれた麻生氏の野望
現在の議論は、今や数が減少し、それが増えていく見込みの立たない「皇族数をいかに確保していくか」から始まったはずである。
そこから、女性皇族の結婚後の身分保持と、旧宮家から養子を取るという2つの案が出てきたわけだが、養子案は、すでに何度か指摘したように、女性天皇や女系天皇の実現を阻止するために持ち出されたものだった。
世論は、女性天皇や女系天皇を容認する方向に傾いているが、なんとかそれを阻みたい。しかも、それだけではなく、悠仁親王の先に、養子の子の即位が想定されている。どうも、麻生氏などの最終的な目的はそこにあるようなのだ。
もし養子の子が将来天皇に即位するようになれば、それを実現した功績は麻生氏のものである。85歳の麻生氏が、その実現を見届けるのは難しいはずだが、権力を持つ人間は、とかく自分を不死だと考える。
麻生氏の妹の信子妃が、三笠宮家の寛仁親王に初めて求婚されたのは1972年2月のことである。そのとき寛仁親王は26歳だったものの、信子妃はまだ16歳の高校生だった。それですぐに結婚にはならなかったのだが、その翌年、麻生氏は麻生セメントの社長に就任している。実業家だったわけで、衆議院議員に初当選するのは1979年、39歳のときだった。
信子妃が寛仁親王と婚約し結婚するのは、その翌年、1980年のことである。これで麻生氏は、皇室と深い関係を結ぶことになる。そのことが、今日にまで影響している可能性がある。
国民は望んでいない「平安時代の藤原氏」
寛仁親王と信子妃のあいだには彬子・瑶子女王の姉妹は生まれたものの、皇位継承の資格を持つ男子は生まれなかった。生まれていれば、今の時点で、秋篠宮、悠仁親王、常陸宮に次ぐ第4位になっていたはずだ。
その男子が彬子・瑶子女王姉妹と同年代であれば、30代か40代である。実質的に将来天皇に即位する2番手になっていた。
ところが、そうした男子は生まれなかった。麻生氏としては、そうした形で実現されなかったことを、旧宮家からの養子という形で実現しようとしているのではないか。すでに養子となる候補が内々に決まっているのなら、その可能性は高くなる。
妹が皇室に嫁がなければ、そんな野望を麻生氏が抱くことはなかったであろう。たまたまそうした状況が生まれたことで、現代の藤原氏になろうという野望が生まれた。御厨氏の指摘は、まさに真相を突いている。
ただそれは、国民が望むことではない。あるいは、天皇や皇族が望むことでもない。どこかで血がつながっているというだけで、皇族になれるとは思えない。それが、国民や天皇、皇族が思っていることのはずなのである。
無自覚に崩壊させた男系継承の根拠
それに関連して、維新の会の藤田文武共同代表から注目される発言があった。それは、なぜ15歳以上という年齢制限を設けることに“反対するか”である。
その理由として二つ挙げられたが、一つはその年齢の候補者が誹謗中傷にさらされるというものだった。
もう一つは、皇室に入る年齢が早ければ早いほど、皇室になじみやすいというものだった。「小さいときに養子に行けば環境に順応しやすく、皇室内での教育も受けられる」というわけだ。(朝日新聞2026年6月30日付)
「早ければ早いほど」という考え方は、「氏より育ち」という江戸時代からあることわざを連想させるものである。その意味としては、生まれた家の家柄や血筋よりも、育った環境のほうが、その人物の人格や行動の仕方を規定するということである。
となると、自民党や維新の会は、これまで男系による継承を中心においてきたが、そうした血筋には本当は意味がなく、むしろ、「皇室に育つ」という環境のほうがはるかに重要になってしまう。
これだと、男系男子での継承を絶対的なものとする主張の根底が崩れる。はからずも藤田共同代表は、自分たちの主張の根拠を突き崩してしまったのだ。
根拠が極めて薄弱な皇室典範改正案
育ちが重要であるならば、天皇に最もふさわしいのは、天皇家に育った人間になる。今、それに該当するのは、愛子内親王だけである。
しかも、愛子内親王は天皇の血筋も引いている。となれば、次の天皇には愛子内親王が最もふさわしい。そうしたことになってくる。
さらに言えば、早く養子に入り、皇室で育つならば、血筋はまったく意味がないことになる。
一般の養子の場合、血がつながっているかどうかは問われない。しかも、旧宮家からの養子は、血筋では室町時代にまで遡らなければならない“赤の他人”である。それ以外の一般国民が皇室に養子に入ったとしても、若ければ十分その環境に慣れていくわけで、旧宮家の人間である必然性はない。
この藤田共同代表の主張は、彼と会談した麻生氏によって潰されてしまったが、それを押し通したとすれば、皇室典範改正案の根底が崩れることになったであろう。
要は、男系男子での継承にこだわることの根拠は極めて薄弱なのである。藤田共同代表の見解は、そのことを改めて露呈させたのだ。
皇族を「道具」とみなす時代錯誤の意識
中曽根弘文参議院議員の「愛子さまが天皇になったら、結婚する人もいない」という発言もそうだが、皇室典範の改正案についてさまざまな問題が生まれ、反対の声が強まるなかで、推進派からは、失言ともいえるようなこと、あるいは根拠があまりに曖昧なことが次々と出てきている。
天皇もそれに異例の言及をしたわけだが、今の政治家に、皇室の今後の在り方を左右するような法改正を実現する資格が果たしてあるのだろうか。そうした疑いさえ生まれてくる。
これは、摂関政治の時代からそうだが、政治の実権を握った者にとって、天皇や皇族は、あくまで「道具」であり、それを「いかに自分たちの権力の保持に利用するか」しか関心が持たれなかった。
そこから、天皇や皇族が初めて解放されたのは、戦後になって日本国憲法が成立してからのことである。そこでは、天皇は「象徴」と位置づけられ、政治から一歩引いた場所を占めることとなった。
ところが、政治家のほうは、これまでの意識が抜けていない。現代における天皇や皇族の意味、それが果たしてきた役割には根本的に無関心なのだ。
いや、無関心どころではない。麻生太郎氏が、養子に皇位を継承させようとするのは、最も扱いやすい天皇を誕生させようとしてのことである。麻生氏としては、養子を実現させたのは自分たちなのだから、養子に入った人間はおとなしく政治家の言うことを聞けばいいのだということだろう。
未来に禍根を残さないためには、これまでの議論の道筋を反省し、もう一度一からやり直す必要があるのではないだろうか。その際に、「氏より育ち」という考えは、決して無視できないものになってくるであろう。