「了とする」が示す取りまとめの強引さ
皇室の将来を左右する議論が、一つの節目を迎えた。6月10日、皇族数確保策をめぐる「立法府の総意」が取りまとめられたからだ。
与党の自民党はこの過程で、麻生太郎副総裁を会長とする「安定的な皇位継承の確保に関する懇談会」を9日に開催し、8日の与野党代表者協議で示された「立法府の総意」案について、全会一致で了承している。麻生副総裁は、「今国会において皇室典範の改正を成し遂げたい」と改めて意欲を見せていた(6月9日付産経新聞)。
取りまとめ案で一つ、注目された表現がある。結婚後の女性皇族が身分を保持する案と、旧宮家の男子を養子として皇室に迎える案が、それまで「基本的に妥当」とされていたのが、「了とする」とされた点である。
「基本的に妥当」だと、細かな部分では議論の余地があり、完全に合意には至っていないというニュアンスがある。それに対して「了とする」であれば、その内容を受け入れるという意味合いが強い。少なくとも、立法府として一定の結論に達したことを印象づける表現である。
ただ、実際には、女性皇族と結婚した配偶者や子どもを皇族とするかどうかなどにはまったく触れられておらず、細かなところまで合意に至ったとは言い難い。
それでも、あえて「了とする」という表現が用いられたことには、なんとしても今国会で「皇室典範の改正を実現したい」という強い意志が示されている。結局は、自民党が議席数という数にものを言わせて、ゴリ押ししようとしているようにも見える。
衆院議長発言の背後にある“暗黙の了解”
ところが、代表者協議後の記者会見で、自民党から党籍を離脱している森英介衆院議長が、養子には皇位継承の資格を与えないが、その子どもに「男の子が生まれれば皇位継承権を持つ」と発言し、野党から激しく反発されることになった(6月9日付朝日新聞)。全体会議では、そんなことはまったく示されていなかったからである。
その結果、森議長は「将来の検討を先取りしたり、縛ったりするような趣旨ではない」と弁明せざるを得なくなった(6月9日付読売新聞)。
この森議長の皇位継承権に関する発言内容は、すでに言われてきたことで、格別目新しいものではない。だが、本当に全会一致で皇室典範の改正にこぎつけられるのか、まだ決着がついたとは言えない。
しかも、国民のあいだでは、国会での議論が進めば進むほど、「女性・女系天皇」を認める方向で皇室典範を改正すべきだという声は高まっている。
そして、国会での議論が、徹頭徹尾、男系による継承にこだわっていることに対しても、疑問の声が上がるようになってきた。そのこだわりが不可思議だというわけである。
まったく議論されない肝心な問い
なぜ、麻生副総裁や保守派に見られるように、「血による継承」だけが議論になるのか。それは、一般国民からすれば理解が難しいことである。
見落としてならないのは、ここまでの議論において血による継承だけが問題にされ、ほかの側面についてはまったく問われていないことである。
森議長の発言のように、皇室に養子に入った人物の男性の子になぜ、皇位継承の資格を与えるのか。ここで根拠として持ち出されているのは、天皇家と血がつながっているということである。すでに述べたように、その血統にしても室町時代まで遡らなければならないのだが、ほかの根拠はまったく示されていない。
今国会での議論全体が、そうである。皇族としてふさわしい、あるいは皇族として国民の期待に応えられるのが「どういった人物なのか」については、まったく論議されていないのである。
もちろん、それを議論しはじめると、さまざまなことが言われるようになり、収拾がつかなくなるかもしれない。
だが、皇位を継承して天皇に即位すれば、憲法が規定するように、「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」となるわけで、どんな人物でもいいというわけにはいかない。
それに関連して、私が以前から疑問に思っていることがある。それは、悠仁親王のことである。
愛子さまと悠仁さまの決定的な違い
今の制度においては、次の次の天皇に即位するのは悠仁親王になる。次代は父親の秋篠宮である。秋篠宮は「皇嗣」という立場にあるが「皇太子」ではない。
悠仁親王になると、そのどちらでもない。皇位継承順位では第2位だが、何ら特別な地位に就いていない。皇室の一員に過ぎない。そのことは、ほとんど問題にされていないのだ。
それと関連するのが、悠仁親王に対する「帝王学」の問題である。悠仁親王が今上天皇の子であれば、陰に陽に帝王学を施され、国民もその過程に接していくことになる。ところが、悠仁親王は今上天皇の甥であり、何かの機会に天皇と同席する機会はほとんどない。
そこが、愛子内親王との決定的な違いである。
したがって、国民のあいだに、悠仁親王は本当に帝王学を授けられているのだろうかという疑問が湧いてくるのだが、麻生副総裁も、保守派の論客も、それについて問題にすることはまったくない。悠仁親王に帝王学が授けられるように状況を変えることは試みられていないし、提言すらされていないのだ。
血がつながっていさえすれば、その人物像や在り方を問う必要はないのだろうか。皇室に養子に入った旧宮家の人間の子どもなら、どんな人間でも、場合によっては天皇に即位し、日本の象徴になることができるのだろうか。
その点はまったく問われていないのである。それは謎ではないだろうか。
「生前退位」で明るみに出た政権の意向
国民が、国会で進められてきた議論に違和感を持つのも、そうしたことが関係しているはずである。またそこに、国民は不安を感じていることだろう。
戦後は「開かれた皇室」がスローガンとなり、天皇や皇族は、国民に対して開かれた皇室を作り上げることに邁進してきた。だからこそ、皇室は国民に支持されているわけである。
ところが、保守派の政治家や論客は、その面を完全に無視し、血による継承だけを問題にしている。
実は、それが明るみに出たことがあった。それは、現在の上皇が生前退位の意向を示した2016年のときである。
皇室典範では、天皇は終身とされ、退位の規定は存在しない。また、憲法では、第4条で、「国政に関する権能を有しない」と規定されており、天皇が自ら退位を希望することは、国政を動かすものとして、あってはならないこととも考えられていた。
それでも、国民は退位を支持し、それは実現された。ただ、その際に皇室典範は改正されず、退位の規定は設けられなかった。一代限りの特例法で処理された。それも、当時政権を担っていた安倍晋三首相が、退位の制度化を嫌ったからである。
しかも、安倍首相は、上皇が退位の希望を持っていることを知りながら、それを無視し続けた。上皇が、ある意味非常手段としてビデオメッセージを発したため、やむを得ず退位を認めたのである。
“何もしない”天皇を望む保守派の論理
退位をめぐる動きが続くなかで、保守派の政治家や論客は、退位に強く反対した。高齢で公務に支障をきたすのであれば、それを代行する「摂政」をおけばいいという主張である。
上皇は、摂政をおくことに断固反対した。
一つには、父である昭和天皇が、大正天皇の摂政として苦労した経験があるのを知っていたからである。
だが、より重要なのは、天皇には象徴として重要な役割があり、健康を損なって、それを十分に果たせなくなることは、日本の国の活力を失わせることになるという危機感があったことである。そうした上皇の考えは、ビデオメッセージで示された。
ところが、保守派は、上皇とはまったく考えが異なった。たとえば、保守派の論客の一人である小堀桂一郎東大名誉教授は、「天皇は居てくださるだけでよい」と主張した。高齢で公務ができないのであれば、宮中で静かに祈っていればいいというのである。
こうした主張は、上皇をいたく落胆させたようだが、保守派は、天皇や皇族がむしろ「何もしない」ことを願っているのである。そこからすれば、上皇が天皇に在位している間に考え続けた「象徴としての在り方」などどうでもいいことになってしまう。
ではなぜ、保守派は、天皇や皇族が何もしないことを望むのだろうか。
現政権の本音が見えた「昭和100年記念式典」
それは、自分たちが政治を行う上で、あるいは自分たちの主張を展開する上で、天皇や皇族が発言したり、何らかの行動を起こすことが邪魔になるからである。
最近も、それがはっきりとした出来事があった。
それは、4月29日に行われた「昭和100年記念式典」においてである。その場には、天皇皇后が臨席していたにもかかわらず、天皇の「お言葉」はなかった。それは違和感を抱かせるものだったが、すぐにそれが官邸の意向であることが判明した。
天皇がそこで挨拶をすれば、昭和の時代に起こった戦争に言及し、平和の貴さを強調したことであろう。高市早苗首相としては、それを怖れたのだ。自分が推し進めようとしている政治に対して、天皇が圧力をかけるような結果になるからである。
高市首相も、小堀名誉教授のように、天皇には居てさえすればいいと考え、宮中での祈り以外不要だと考えているのではないだろうか。
それが、保守派全体の考えであり、だからこそ、天皇の象徴としての在り方や行動の仕方については議論されず、ひたすら血による継承だけが問題にされるのである。
養子案は、女性天皇や女系天皇を阻止するために持ち出されたものである。
もしも国民が待望する「愛子天皇」が実現し、「お言葉」が発せられれば、それは政治家や保守派の論客に大きな圧力になる。麻生副総裁などは、それを本心から怖れているのではないだろうか。