トータルビューティクリエイターの川邉サチコさんを母にもち、母とともにプライベートサロン「KAWABE. LAB」を主宰する、ビューティディレクターの美木ちがやさん。ヘアメイクアップアーティストという肩書がまだ日本になかった時代に、自らそのキャリアを築いた母とは、娘から見てどんな存在だったのだろうか――。
川邉サチコさん(左)、美木ちがやさん
撮影=奥村康人(News)
川邉サチコさん(左)、美木ちがやさん

執刀医に会いに行き、率直な意見を述べた母

1960年代初頭、日本のファッション黎明期といわれる時代に、オートクチュールのファッションショーにヘアメイクアップアーティストとして参画し、国内外の世界的クリエイターとともに時代を牽引した母・川邉サチコ。私という小さな命の誕生は、彼女の度胸、そして美意識とともに始まったといっても過言ではないかもしれません。

ビューティディレクターの美木ちがやさん
撮影=奥村康人(News)
ビューティディレクターの美木ちがやさん。「誰に対してもはっきりと自分の意見を言う母。そんな母の背中を見て育ちました」。

というのも、私は先天性の心疾患を患っていて、幼少期に手術をするか、成功率が上がる成長後に行うのか、その二者択一を迫られた時期がありました。誰もが迷うなか、母が手術を決断。偶然、近くに名医がいることがわかり、母は先生のご自宅まで伺って、直接話をしに行ったのです。

「女の子だから術後に傷が見えにくいように執刀してほしい。今の主流は○○と聞いているが、××は可能でしょうか」

先生はその場での回答は避けたらしいのですが、手術室から出てすぐ、まだ手袋をはめた状態で、こうおっしゃったと聞いています。「難しい手術でした。初めてやりましたよ」と。

娘の執刀医に直接会いに行き、傷跡のことまで考えて自分の意見を率直に述べる。これはなかなかできることではないと思います。命と美意識と。そのふたつが母のなかで自然に共存していたからこそ、相手がどんな立場の人間であれ、思いを伝えたのでしょう。私はそういう母親の背中を見て育ちました。

小学2年生から寮生活がスタート

物心ついたときからすでに働いていた母。私が最初に入った小学校はとてもコンサバティブな校風で、当時多くの家庭がそうだったように「お母さんは家にいる」のが当たり前でした。私のように、母の代わりにお手伝いさんが迎えに来たりするのは珍しいこと。自分の存在はどこか浮いていると感じていました。異質な存在に寛容ではない学校側が醸し出す雰囲気や理不尽な態度に、母の怒りが爆発。話し合いが行われた結果、私は別の学校へと移ることになりました。

新しい学校はリベラルな校風で国際色豊か。私自身、解放されてラクになったのと、視野がどんどん広がっていくのを感じました。いちばん大きく変わったのは寮生活になったこと。平日は寮に泊まり、週末は家に帰って家族と過ごすという生活です。寮は二段ベッドがふたつ並ぶ4人部屋で、とても質素な空間でした。洗濯機も脱水機しかなかったので、簡単なものは自分で手洗いして自分で干します。冷たい水しか出なかったので、冬は手が霜焼けになり、父はよく「こんなにかわいそうな子はいない」と嘆いていました。

お土産を手に母は空港から寮に直行した

ただその生活で養われたのは自立心。起きてすぐのベッドメイクから日々の身だしなみ、たとえば髪の毛をしっかり乾かし、ブラッシングするなどはあたり前だと思って育ってきたので、自分とその周辺をより美しく整えるようになりました。寮長先生は、財閥の奥様でもあり、私はとても尊敬していたのですが、彼女はたまに生徒の部屋に泊まることがありました。「整理整頓されているから」という理由で自分の部屋が選ばれたときはすごく誇らしかった。その夜は世界文学の読み聞かせをしてくれたりして、知的な佇まいや所作の美しさに憧れたことを覚えています。

今でも大切にしている母からの海外土産の人形たち。
撮影=奥村康人(News)
今でも大切にしている母からの海外土産の人形たち。

写真の可愛らしいぬいぐるみは、寮生活を送る私に母から贈られたものです。ひとつは「Baby Dior」のお人形。ディオールが初めて子ども服のブティックをパリのモンテーニュ通りにオープンしたとき、母がひと目惚れして手に取ったもの。ミッキーの人形はロンドンの空港で購入したものだそう。

母はこれらを私に手渡したい一心で、成田空港から寮へと直行。髪の毛はウルフカットでトレンチコートを羽織り、ミニスカートにニーハイブーツという最先端のモードファッションで現れるのです。今でも脳裏に残っているのは、先生方が見守るなか、そのブーツがなかなか脱げなくて苦労している姿。愛おしいやら恥ずかしいやらで、われながら「シュールだなぁ」と感じたのをよく覚えています(笑)。

時代の寵児らとの西麻布での濃密な時間

平日は厳しくも愛情深い先生方とともに寮生活を送り、週末はそんなぶっ飛んだ母親や家族と過ごす。いわばダブルスタンダードのもとで育ちながら、少しずつ時間をかけて体得したある学びがありました。それが「母親もひとりの女性である」というごくあたり前の、でも子どもにはまだ理解が難しい、あるひとつの真実でした。

ヘアメイクアップアーティストとして、美容やファッションの世界で活躍する母はとても輝いていました。子どもの目から見てもキラキラしていて、とにかくモテていました。あるときは一世を風靡したミュージシャンが母の運転するスポーツカーに乗り込んできて、私が一緒にいるにも関わらず、車から降りてくれなかったこともありました。

30代の頃の母、川邉サチコさん
撮影=操上和美
30代の頃の母、川邉サチコさん

特に西麻布に住まいを構え、コシノジュンコさんら時代の寵児と呼ばれる人々と密に過ごした時期は、特別な時間だったと思います。みんなそれぞれ気が強くて、バチバチなライバル関係でありながら、とっても仲がよく、新しい時代を切り拓くために手を携えて前に向かっていました。手に負えなかったのかどうなのか、父はよく私に「世の中の人々はもっと保守的なのだからね」などと言っていましたね。

私のお母さんである前に、ひとりの女性なのだ

母親であると同時に、女性としての魅力も放つ母。そのことに複雑な思いを抱えたことはもちろんあります。仕事にプライベートに駆け回る母を見て、寂しい気持ちを抱かなかったわけではありません。ただあまりにイキイキとしていて楽しそうで、その姿を眺めているうちに、ある日ふとこう思ったのです。「この人は、私のお母さんである前に、ひとりの女性なのだ」と。

そのことが腑に落ちてからは、いろんなことをすんなりと受け入れられるようになり、私自身も生きやすくなりました。「ひとりの女性として見る」という視点は、人生のさまざまな場面で役立っていて、他者との関係性を築くときや仕事を進める際にも生かされていると感じています。

いつも「一緒に頑張ろう」と寄り添ってくれた

私が大学を卒業するタイミングで、母から卒業旅行をプレゼントしたいという提案があり、初めて母娘ふたりで旅をすることになりました。向かう先はヨーロッパ。親戚の家があったので、約1カ月、パリやローマでゆっくり過ごそうというものでした。母と私がこんなに長い間一緒にいるのは初めてのこと。親子水入らずの時間になるかと思いきや……なんとその正反対。ずっと一緒にいるのがこんなにもツラいことだとは思いもしなかったのです。

「母とずっと一緒に過ごすことがこんなにツラいなんて思いもしませんでした(笑)」と語る、美木ちがやさん。
撮影=奥村康人(News)
「母とずっと一緒に過ごすことがこんなにツラいなんて思いもしませんでした(笑)」と語る、美木ちがやさん。

何が原因だったのかすら覚えていませんが、とにかく些細なことでケンカばかり。タクシーの中でもすごい剣幕でやり合って、運転手さんが凍りついてしまうほどでした。よく考えると血のつながった親子ではありますが、お互いに自立した人間同士。それも個性の強いふたりですから(笑)、波乱の道中になるのは必然だったのかもしれません。

リアルな旅はさておき、人生という名の旅においては、とても愛情深く、私の失敗や挑戦に寄り添ってくれる人でした。やりたいことや進みたい方向があれば、惜しみなく協力体制をとってくれました。記憶に残っているのは、「大丈夫」「なんとかなる」「一緒に頑張ろう」という言葉と姿勢。家族のなかでも母と私の絆は強く、お互い自立しながらもどこか“運命共同体”のような意識があったのだと思います。

幼少期はほとんど一緒に過ごすことができなかったのに、現在のように師弟関係を築きながら、一緒に仕事をするとは思ってもみなかったこと。随分と年が離れていると思って生きてきましたが、今は同じ時代をともに生きる者同士、「女性の真の美を追求し、個性を引き出す」という使命を掲げ、刺激し合えることに、心からの幸せを感じています。

母を師匠として、ともに働くということ

母が立ち上げた大人のトータルビューティを提案するプライベートサロン「KAWABE. LAB」。そこに私が加わるようになり、オープンから31年が経ちました。お互いにリスペクトし合い、意見をぶつけ合いながらも、親子2代でここまで続けてこられたことは、まるで奇跡のように感じます。

最初は母のテリトリーに入っていくような感覚があったし、彼女はそれこそ美容のプロなのだから、他業界で働いてきた私に何ができるだろうという思いはありました。彼女の師匠である義理の母親(私の祖母)がまさに「背中を見て学びなさい」という指導だったからなのか、母も同じく決して手取り足取り教えるタイプではありません。私も母の一挙手一投足を見て覚えていったのです。

(写真右)川邉サチコさん。「仕事は母がしてきたことと同じく、母の一挙手一投足を見て覚えた」と美木ちがやさん(写真左)。
撮影=奥村康人(News)/©ハルメク
(写真右)川邉サチコさん。「仕事は母がしてきたことと同じく、母の一挙手一投足を見て覚えた」と美木ちがやさん(写真左)。

母には母の美意識があり、私には私なりの意見がありますから、ぶつかり合うことはもちろんあります。ただ現場での仕事の流れについては、不思議なことにバチっと気が合いました。たとえば「この案件の主役は誰か。となると誰をいちばんサポートすべきか」「今日の現場の動線はどうなっているか。ならばどこを優先して整えるべきか」など。仕事の“肝心要”というのでしょうか。その見極めが同じで、言葉にせずとも最善の方法が取れるのはすごくラクなことでした。

これまでずっと語ってきたとおり、幼少時代から離れて暮らし、お互いに自立して生きてきた母と私。年齢を重ねて一緒に仕事をすることになり、改めて気づいたことがあります。それが「母は、人そのものがこんなにも好きなんだ」ということ。それは新たな発見でもありました。

人間愛あふれる“下町気質”

母はずっとハイブランドのファッションショーなどでモデルを相手にヘアメイクを行ってきました。それがプライベートサロンを立ち上げてからは、一般のお客様に向けてそれぞれの美を提案することになります。プロから個人へ。その対象が変わったことで、彼女のなかに混乱が生まれたこともあったと思います。でも「人が好き」という気質がエンジンになったのでしょう。お客様への愛情が何よりも勝り、この仕事が天職になっていったのだと思います。

ビューティクリエイターの美木ちがやさん。
撮影=奥村康人(News)
ビューティクリエイターの美木ちがやさん。

その例でわかりやすいのがウエディングの仕事です。お祝いムードたっぷりの現場はハッピーオーラに満ちていて、私たちスタッフも自然とテンションが上がります。花嫁さんを世界でいちばん美しく見せるのが仕事ですから、とにかくすべての言動が“新婦ファースト”になる。母にそのスイッチが入ったときの集中力やエネルギーは、娘の私から見ても迫力あるものなのです。

母は日本橋の生まれで、下町気質。義理人情にあつく、世話を焼くのをいといません。花嫁さんはもちろんのこと、もっと美しくなりたい、時には自分を変えたいという願望を胸にサロンへと来てくださる方のために、根気よく話を聞きながら並走します。その姿を見ていると、「あなたのためならひと肌脱ごうじゃないの」という意気込みや肝っ玉を感じます。その思いが極まって、お客様自身が余計な手を動かそうものならピシャッと払ったりして、こちらが冷や冷やすることもあるのですけど(笑)。

88歳の今も現役として輝き続ける、その根底にあるもの

もうひとつ尊敬してやまないのは、アーティストとしての視点の正確さと創造性の豊かさです。一人ひとりの顔立ちを見て、すぐに長所短所を把握し、どこを隠してどこを目立たせたらいいのか。そのためにどんなテクニックが有効か。今のイメージと変えたいのならば、どこへ向かうといいのか、逆にやってはいけないことは何か。それらを瞬時に見極める能力は、本当にかなわないなと思います。特に、何かハプニングが起こったときの対処能力の的確さは、目を見張るものがあるのです。

美木ちがやさん
撮影=奥村康人(News)
「母の豊かな創造性には、驚くことも多々あります」

アーティストとしての感性と技術が十分に備わっていて、さらにあふれんばかりの愛情をもってお客様に接する母。美に対するプロ意識と、お客様に対する200%の真心と。その両軸が母の唯一無二の個性だし、トータルビューティクリエイターとして88歳の今も輝いている理由ではないかなと思います。

世界のトップクリエイターとともに時代をつくりあげてきた母は、「かっこいい大人を増やして、日本を美しく豊かにする」という信念のもと、今もサロンに立ち、元気にお客様を迎えています。熱狂の時代に最先端を走ってきた自負と、今の時代のムードとのギャップ、また年齢を重ねて理想とする気力体力と、その現実との差に歯痒い思いをすることもあると思います。それでもなお、いろんなことにアンテナを張って、誇り高く生きている姿に尊敬の念を抱くばかりです。

一緒にいると、いまだに激しい口論も

そうはいっても親子ですから、きれいごとばかりではなく、一緒にいればいざこざは絶えないし、まだまだ衝突もします。つい最近も外出先でかなり激しいケンカをしたのですが、「じゃあ、どうしてほしいの!」と強く聞いたところ、「放っておいてほしい!」と返してきました。おそらく年寄り扱いをされることがものすごく嫌なんだと思います。

私の夫は「ドアを開けてあげないと」「重い荷物を持たせてはいけない」などと言うのですが、そうやってフォロー体制に入ると、すごくうっとうしそうな態度をするのです。だから最近は手放すことを覚えました。それがこの年齢まで現役で走ってきた母にできる最善の方法だと信じながら……。

母から受け継いだ「真髄」を追求する楽しさ

母からは「女性が元気で美しく前向きであれば、世界はどんなことも乗り越えられる」ということを、身をもって教えてもらいました。この仕事をとおしてさまざまな女性たちと出会ってきましたが、誰ひとり同じ人間はいません。なんだか大袈裟なようですが、それぞれの生き方がどこかで誰かとつながって、全人類の役に立っているような気がしてならないのです。

母・川邉サチコさんの著書『87歳。“私基準”で生きる』(プレジデント社)には、「母の信条と仕事人生が詰まっている」と、娘の美木ちがやさん。
撮影=奥村康人(News)
母・川邉サチコさんの著書『87歳。“私基準”で生きる』(プレジデント社)には、「母の信条と仕事人生が詰まっている」と、娘の美木ちがやさん。

私は、人には役目があると思っています。外の世界に飛び出して社会のために動くのでもいいし、目の前の人を支えるため環境を心地よく整えるのでもいい。自分の役目を果たすことが、自然と働くことにつながっていると考えます。今の時代は複雑で、すぐには答えの出ないことばかり。それでも私は「真髄」について考えるのが好きです。それは美意識と愛情をもって人に接し、その人自身の「真髄」を引き出すことを生業とする、母の背中を見てきたからではないかと思う今日この頃です。