※本稿は、小泉凡『セツと八雲』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
日本人になった八雲、最期の日々
そもそも八雲は丈夫な方で、医者の診察を受けたり、薬をのむことが大嫌いでした。しかし新学期が始まり、9月半ばを過ぎる頃、八雲は時々胸苦しさを覚えることがありました。こうなると医者の世話にならざるを得ません。やはり心臓の状態がかなり悪化していたのです。
19日午後3時頃、また発作が起きました。セツが書斎に行くと、胸に手をあてて静かにあちこち歩いていました。そして、静かに語りました。
(妻セツが書いた)『思ひ出の記』によると、
〈この痛みも、もう大きいの、参りますならば、たぶん私、死にましょう。そのあとで、私死にますとも、泣く、決していけません。小さい瓶買いましょう。三銭あるいは四銭位のです。私の骨入れるのために。そして田舎の淋しい小寺に埋めて下さい〉
淡々とこう続けるのです。
〈悲しむ、私喜ぶないです。あなた、子供とカルタして遊んで下さい。いかに私それを喜ぶ。私死にましたの知らせ、要りません。もし人がたずねましたならば、はああれは先頃なくなりました。それでよいです〉
「死にます」宣言に妻セツは…
セツは「そのような哀れな話して下さるな」と返しましたが、八雲は「これは冗談でないです。心からの話。真面目の事です」と力をこめて言うのです。すると数分後、不思議と痛みがひきました。
この頃にはもう覚悟を決めていたのでしょう。
それから5日ほどたった日、書斎の庭の桜が、ひと枝、返り咲きました。9月というのに、妙なことです。これを知った八雲は「ありがとう」と喜んでそばまで行き、「ハロー」と言って花を眺めました。花は1日だけ咲いて、夕方には寂しく散ってしまいました。セツはこの桜は八雲にほめられ、愛されていましたから、いとまごいにきたのでしょう、と思いをはせています。
同じ頃、虫の音をこよなく愛する八雲が大事に飼っていた松虫の声音が、とぎれとぎれになってしまいます。あわれに思った八雲は暖かい日を見計らって草むらへ逃がしてやろう、とセツと約束しました。弱ってゆく自らと松虫を重ねていたのでしょう。
長男と交わした不思議な会話
9月26日。
八雲は西洋でもない日本でもない、とても遠い所へ旅した夢を見ました。不思議な夢だったそうです。日本に来るまでに「ゴースト」という随筆を書いたことを八雲は思い返します。
そこには、生まれ故郷から漂泊の旅にでたことのないひとは、一生、ゴーストのことを知らずに過ごすけれど、漂泊の旅人はそれをじゅうぶんに知り尽くしている、とつづっていました。地球半周をめぐるゴーストと出会う旅の人生を、反芻したような気がしたのでしょう。ひとり夢の余韻に浸っていました。
その朝、一雄に「グッドモーニング」と声をかけられ、「グッドモーニング」と返そうとしたら、この日はどうしたわけか「プレザント、ドリーム(おやすみなさい、よい夢を)」と言ってしまいます。一雄はけげんな顔をしながら、「ザ、セーム、トウ、ユー」と答えました。悲しいかな、もうかなり弱っていたのでしょう。
「あまりあっけない死に方」
午後には日露戦争に出征した教え子に書物を送ってあげたいが何がいいだろうか、と書斎の本棚をさがし、彼への手紙を書きました。夕食の時にはいつもより機嫌がよくて、冗談を言って大笑いもしていました。そして……
〈いつものように書斎の廊下を散歩していましたが、小一時間程して私の側に淋しそうな顔して参りまして、小さい声で「ママさん、先日の病気また帰りました」と申しました。私は一緒に参りました。しばらくの間、胸に手をあてて、室内を歩いていましたが、そっと寝床に休むように勧めまして、静かに横にならせました。間もなく、もうこの世の人ではありませんでした〉(『思ひ出の記』)
「パパァーッ、パパァーッ」
八雲の胸に取りすがり、セツは絶叫しました。
〈天命ならば致し方もありませんが、少しく長く看病をしたりして、いよいよ駄目とあきらめのつくまで、いてほしかったと思います。あまりあっけのない死に方だと今に思われます〉(同前)
机上には書きかけの原稿用紙が残されていて、そばに置いていたペン先のインクは、まだ乾いていませんでした。午後8時過ぎ心臓発作でした。54歳の、急な旅立ちとなりましたが、死に顔に微笑みを浮かべていたのが救いでした。
雑司ヶ谷の墓地に葬られた
かつて、そこの僧侶になりたい、と親しんだ瘤寺で葬儀は営まれました。焼香の間、セツは涙を止められませんでした。悲しみに暮れるセツに代わって葬儀をとりしきったのは、遠縁にあたる法学者の梅謙次郎(1860〜1910)でした。
墓は好んで散歩した雑司ケ谷の墓地に建てられ、庭から移したバラなどが植えられました。
と刻まれた簡素な佇まいの墓です。セツの墓と隣り合い、歳月を重ねています。
セツが記した「八雲の好きな物」
(セツの書いた)『思ひ出の記』の終盤に、八雲の人柄を端的に言い得た箇所があります。
〈ヘルンの好きな物をくりかえして、ならべて申しますと、西、夕焼、夏、海、游泳、芭蕉、杉、淋しい墓地、虫、怪談、浦島、蓬莱などでございました。場所では、マルティニークと松江、美保の関、日の御碕、それから焼津、食物や嗜好品ではビステキとプラムプーデン、と煙草。嫌いな物は、うそつき、弱いものいじめ、フロックコートやワイシャツ、ニユ・ヨーク、そのほかいろいろありました。まず書斎で浴衣を着て、静かに蝉の声を聞いている事などは、楽しみの一つでございました〉
ここに掲げられた、いくつもの事柄から、容易に語りきれないセツの想いが聞こえてきます。僕は松江で教員生活をおくりながら、八雲の足跡を追うようになりました。夫婦が暮らした時代の風情が残っているだけに、これらの端的な記述を思い返しながら、セツと八雲が直面した数多の出来事の、人生の文脈が腑に落ちるようになりました。
八雲が世を去った翌年に(『思ひ出の記』を)書き始めたわけですから、セツは痛む心を抱えながら、一生懸命語りました。まだ36歳でした。子どもは4人。長男の一雄は10歳、末娘の寿々子は1歳になったばかりでした。悲しみから再起して、大黒柱を失った家庭を切り盛りせねばなりませんでした。
