※本稿は、小泉凡『セツと八雲』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
ハーンは息子たちへ家で講義を
八雲は家でも「講義」をしました。(編集部註:長男の)一雄が学齢期に至ると「ホームスクーリング」と称して朝と夕、自ら教えました。一雄の体が弱かったこともありますが、記憶力ばかりを重んじて、肝心な想像力が育まれない、と日本の教育制度を懐疑的に見ていました。
病気にかからない限り、ホームスクーリングに休みはありません。文机を用意して、一雄を座らせます。教材は『アンデルセン童話集』や英国の民俗学者アンドルー・ラングが編集した『妖精物語集』などをもとに早朝と夕方に教えました。英語だけでなく、社会や理科の要素もあわせて伝えました。次男の巌もやがてそこに加わりました。
一雄が最も興味を持ったのはアンデルセンの「しっかりものの錫の兵隊さん」でした。
八雲は時間をかけて辞書を引き、日本語の単語を70カ所以上、その本にカタカナで書き込んでいます。ラングは「古代人のたわごと」という風にされてきた世界の神話を「古代人の生活や信仰を知るためのよりどころ」とする解釈を試みた人物で、八雲は彼の著書を愛読していました。
松江の記念館で公開中の「文机」
自らの理想をこめて続けたホームスクーリングです。義務教育の学校には行かせませんでしたが、ご近所の手前もあり、セツはどうしたものかと苦慮していたようです。結局、10歳の頃には地元の学校に通わせることになるのですが。
ともあれ、曽祖父の想念が染みた文机は、大正生まれの孫である時、そしてひ孫の僕に引き継がれました。
この文机は今では、下敷きがないと物が書けなくなっています。長い間、使い込まれ、分厚い天板もでこぼこになってしまいました。正座して向かうと、僕も子どもながらに背筋が伸びたものでした。
そんな「威厳」を感じさせるのは、教育者としての八雲の想念が刻まれているからでしょう。今は松江市の小泉八雲記念館でお見せしています。
ハードワークとタバコが体の負担に
セツが語る物語に、八雲が魂を吹き込む。そんな再話文学の執筆の勢いはましてゆきます。1899(明治32)年の『霊の日本』、1900年『影』、01年『日本雑記』、02年『骨董』と出版は続きます。執筆は家族が寝静まった夜におこない、夜更けまで続きます。
帝大の講義の支度をし、こなしながら、かつ朝夕のホームスクーリングにも熱を入れながらですから、寝る間もないほどのスケジュールです。体への負担は重くなるばかりでした。大好きなタバコをきらさなかったのも響いたでしょう。体力には自信のある人でしたが、身中に暗い影を帯びていきます。
毎年、本を出し、生き急いだ
生き急ぐ八雲は、時間を惜しみました。子どもたちにも時間を無駄にするな、とカミナリを落とすことがありました。
もともと人付き合いには熱心ではないのですが、西大久保の自宅に暮らすようになった頃には帝大の講師でもあり、作家として知名度も上がっています。訪ねてくる人がいても「時間を持ちませんから、お断り致します」などと家の者に言わせて、まず応じませんでした。
電話をつけませんか、とセツが勧めても受け入れるはずもありませんでした。
それぐらい寸暇を惜しんで執筆していました。ただ、大学の教壇に立ちながらですから、書く時間が限られることをいつも憂えていました。
あんまり根を詰めているのを見かねたセツはある時、いさめます。
「あなた、自分の部屋の中で、ただ読むと書くばかりです。少し外に自分の好きな遊びして下さい」
八雲は意に介しません。
「私の好きの遊び、あなたよく知る。ただ思う、と書くとです。書く仕事あれば、私疲れない、と喜ぶです。書く時、皆心配忘れるですから、私に話し下され」
日頃、再話文学への取り組みでタッグを組むセツも負けじと返します。
「私、皆話しました。もう話持ちません」
すると、八雲はこう切り返します。
「ですから外に参り、よき物見る、と聞く、と帰るの時、少し私に話し下され。ただ家に本読むばかり、いけません」
帝大からの解雇通知に激怒
とりわけ東京に出てから疾走するように書き、暮らしてきた八雲です。しかし、突然、荒波に見舞われました。
『怪談』刊行の1年余り前、1903(明治36)年1月、帝大から、3月末で解雇する、という通知が届きました。
日本国籍を取っていても外国籍なみだった高給が災いしたと言われています。月給は着任当初400円でしたが、日本人なら80円ほどだったそうです。八雲の後任には英国留学から帰った夏目金之助(漱石)が就きました。
退学の覚悟を示して留任運動を起こした学生らもいて、新聞記者が取材する騒動になります。当時の文科大学長の井上哲次郎は八雲を訪ね、条件を下げたうえで再雇用したい、と取りなそうとしました。
ただ、突然の通告を受けて激怒していた八雲の気持ちはしずまることなく、この申し出を拒絶します。
大学に長く勤めたいということではありませんでした。執筆に追われ時間が足りない、といつもこぼしていましたから。
ただ、一片の通知だけで解雇をしたことが人として決して許せなかったのです。
53歳で子ができ、「恥じます」
やがて寿々子が生まれます。この時、八雲は53歳になっており、「私、はじます」とはにかんでいました。4人目にして初めての娘の誕生を喜びつつ、自身の年齢からしてこの子の行く先は見てやれない、と寂しがってもいました。
東京でも松江時代と変わらず、八雲は帰宅すると散歩に出るのが日課でした。その頃のお伴は、一雄であることが多かったようです。面影橋を経由して雑司ケ谷の鬼子母神と行く道を好み、中野方面に足を延ばすこともありました。
晩年は心臓に不安を抱えていました。落合の火葬場の前を通りかかると、煙突を指さして「もうじき私、煙となって出るところです」。などと弱気なことをもらし、セツにいさめられると、「私の体私よく知るです。一雄の中学校へ参るを私見る難しいです」
寂しそうに、そうつぶやきました。
死去する年、早稲田の講師に
1904(明治37)年の春には、早稲田大学に招かれます。水曜と土曜に19世紀の英文学史と近世の詩人についての講義を合わせて、週4時間おこないました。早稲田は帝大とまったく違う校風で、和服で通う学生も多く、八雲はその肩肘の張らない雰囲気に居心地の良さを覚えたようです。
「帝国大学と早稲田大学はどっちが立派ですか」
と一雄は八雲に尋ねたことがあります。
八雲は厖大な金文字入り装丁の本と黄色い紙装丁の清楚な本を指さして前者が帝大で、後者が早稲田と説きました。そのうえで、
「煌びやかな着物が必ずしも人格の表現ではないように装丁で本の価値が定まるものか」と教えました。
溺愛した長男は早稲田に進学
創始者で政治家の大隈重信(1838〜1922)に会ったこともありました。
「宗教の仮面をかぶって日本を侵略しようとする西洋人らにご注意を」
とつい言わずもがなの意見を述べてしまい、大汗をかいて帰宅し、苦笑いを浮かべていたそうです。当時10歳だった一雄は長じて、早稲田に進みました。
一雄の『父「八雲」を憶う』によると、この年の夏、一雄へのホームスクーリングで『怪談』を読みました。一雄が希望したのです。この時、八雲は面はゆげで、誤訳についてもほかの詩歌や散文の時のように、手厳しいことは言いませんでした。
〈そして「この本あなた真実好きですか?」と幾度も尋ねました〉
「やさしくて面白いです」と答える度に八雲は苦笑しました。
〈パパが自分の著書を息子に教えること誰にもいうないよき。私少し恥じる〉
とつづっています。
八雲は恥ずかしがり屋で、自らの著書が入れてある本箱だけは戸棚の中へ隠して、人の目にふれないようにしていました。そして『怪談』はホームスクーリングの最後の教材になりました。
