※本稿は、デヴォン・プライス『なぜ休むことに罪悪感を覚えるのか』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の一部を再編集したものです。
ホームレスへの根深い偏見
私の職場はシカゴの中心部、ミシガン・アベニューから脇に入ってすぐのところにある。朝からくたびれた通勤客や歩くのが遅い観光客の集団をかき分けて仕事に向かっていると、通りに座り込んだ人から小銭をせがまれる。毎朝、5〜6人は下らない。
子どもが小銭を渡そうとして、いかにも偏狭な親に咎められている光景もよく見かける。親の台詞は毎度お決まりだ。
「お金をあげてもどうせドラッグやお酒に使われちゃうのよ」「ホームレスのふりをしているだけかもしれない」「ちゃんと暮らしたいなら怠けてないで働けばいいのに」
こういう台詞を聞くと心底、怒りが湧く。ホームレスで生きていくのがどれほど大変かを知っているからだ。
ホームレスになったら、暖かくて安全な身の置き場を確保するだけでも毎日が闘いになる。
いつも全財産を肌身離さず持ち歩くしかない。少しでも目を離せば盗まれるか捨てられてしまうからだ。あなたもホームレス生活をしてみれば、1週間足らずでケガをして手当てもできずにいるか、心身を病んでいるだろう。夜だって安眠できない。日中は、食べ物や寝る場所のために物乞いを続けるしかない。公的扶助を受けている場合は、ケースワーカーや医師、心理士との面談を定期的にやらないと、医療サービスや食事補助が打ち切られる。
日々、傷つけられて体調を崩しボロボロになっていく。殴られたり脅されたりすることも日常茶飯事だ。公共の空間にいるのに理由なく追い出そうとする人も多い。
毎日、生き抜くために闘っているのに、それを人びとはただの「怠惰」と切り捨てる。
なぜこうした実態に詳しいのかというと、友人が実際にホームレス生活をしていたからだ。
“ホームレス=社会のゴミ”として扱われるつらさ
私の友人のキムは、パートナーと2人の子どもと住んでいたアパートを大家に追い出されて、夏の間ずっとウォルマートの駐車場で暮らしていた。
キムが言うには、ホームレスになって何よりつらいのは、周囲の人から見下され、負の烙印を押されることらしい。ホームレスだと知られない限りは、キムたちがマクドナルドで一日中、コーラを飲んだり電話の充電をしたりしながら酷暑をしのいでいても、何とも思われない。けれど、ホームレスだと気づかれた途端、「くたびれてはいるが、しっかりした親」に見えていたはずのキムが、信用ならない「怠惰」な社会のゴミとして扱われる。親子がどんな格好をしていても関係ない。いくら行儀が良くても、どれだけフードを注文していても、いったん「怠け者」のレッテルが貼られると、どうしようもない。簡単に店から追い出される。
「怠け者」を嫌う文化
私たちの文化は、「怠け者」を毛嫌いしている。
しかも「怠惰」と見なす対象は、残酷なほど広範に及ぶ。薬物依存症から抜け出したいのに再発した人は、怠惰なせいで依存症を克服できないと決めつけられる。失業中の人がうつ病で起き上がるのもつらく、就職活動ができないのも怠惰だとされる。
キムは毎日フルタイムで働きながら、必要な物や安全な場所を探し、家族が寝泊まりしている壊れたミニバンの中で、子どもたちに算数や読み書きを教えていた。それでもキムは怠惰だと扱われる。もっと働いて貧困から抜け出せばいいのに、と思われるのだ。
「怠惰」という言葉は、大体いつも、道徳的な非難の意味合いで使われる。誰かを「怠け者」呼ばわりする場合、それは単なるエネルギー不足ではなく、「その人自身に大きな問題や欠陥があるのだから、何が起ころうと個人の責任だ」というニュアンスを伴う。
怠惰な人には努力が足りないし、本当は正しい決断もできたはずなのに自分で悪い道を選んだのだから、そのような人は支援する価値がなく、配慮や同情の余地もない、というわけだ。
そうやって人びとの苦しみに目を向けずにいれば、気分は楽かもしれない(ひどいやり方ではあるが)。
もし本当に、通りで見かけるホームレスの人が全員、ただ「怠惰」だったせいでその境遇にあるのなら、小銭を渡す必要はない。ドラッグ所持で逮捕歴のある人が、単に「怠惰」であるために定職に就けないのなら、薬物政策に気を揉む必要もない。担当している学生の成績が悪いのも、もし本当に「怠惰」だけが理由ならば、私だって教え方を変えたり、課題の提出期限を延ばしたりする筋合いはないだろう。
けれど、人生というのはそう単純ではない。
「本人の努力が足りない」わけではない
ホームレスの人は、家庭内暴力や虐待の被害者など、何かしらのトラウマを抱えているケースが多い。路上生活をしている10代の若者の多くが、同性愛やトランスジェンダーへの偏見を持つ親によって家を追い出されたり、里親制度の欠陥の犠牲になっていたりする。長期失業者の多くは精神疾患を抱えており、失業期間が長くなると症状も悪化しがちで、就労はより困難になる。薬物依存症の再発は、総じて貧困やトラウマなど別の要因が絡んでいるため、治療も単純ではなく、繊細な対応が必要だ。
世間から「本人の努力が足りない」と蔑まれている人は、ほとんどの場合、他者からは見えない障壁や困難と懸命に闘っている。これは教員生活でも実感したことだ。
出席状況や成績の悪い、一見「怠惰」に思える学生に連絡を取ると、その学生は私生活で困難に直面している。メンタルヘルスや過労の問題もあったし、年配の家族や病児のケアを抱えている場合もあった。ある学生などは、1学期16週の間に親を亡くし、災害で自宅を失い、さらに娘が重度のうつ病で入院していた。そのような厳しい状況下でも、本人は課題ができない自分を責め、実情を伝えてもどうせウソだと疑われるからと、事実を証明する書類をいつも持ち歩いていた。
「怠け者」と見なされることへの恐れは、これほど深く根付いている。
人の苦しみは外部からは見えない
問題を抱えすぎて困っている人が怠惰に見えるのはなぜだろうか。
理由の1つは、人の苦しみはたいてい外部からは見えない、ということだ。
不安障害や貧困、病児のケアや介護などで困難な状態にあると学生が伝えてくれない限り、教員の私には知りようがない。バス停のそばにいるホームレスの人とも実際に話してみるまでは、彼が脳損傷の後遺症を抱えており、朝、服を着るなどの日常の動作にも苦労しているとはわからなかった。同様に、業績の低い同僚がいても、その人が頑張れないのは慢性的なうつ病によるものだとは知る術がない。実際には燃え尽きて動けない人を、ただの怠け者だと誤解してしまうわけだ。いくら本人が頑張っていても、社会はその人を排除し続け、ただのやる気のないダメ人間と見なしてしまう。
「怠惰」だと切り捨てられている人の多くは、限界まで追い込まれている。実際は多大な困難とストレスを抱えて、必死に頑張っているのだ。それでも、要求が本人のキャパシティを超えているため、事情を知らない他人からは「何もしていない」ように見える。しかも、この社会では「個人的な問題は正当な理由にはならない」とされている。
社会に満ちている「怠惰のウソ」
こうした偏見や非難は他人に向けられるだけではない。私たちは自分のことも理不尽に責めている。自分に対して、途方もなく高い要求をしがちなのである。もっと頑張らなきゃ、休むべきではないし、欲求は抑えるべきだ、などと考えてしまう。個人的な事情は正当な言い分にならず、抑うつ傾向や子どもの世話、精神的な不安やトラウマ、腰痛など、個人の都合を理由に休んだり諦めたりしてはダメだと思っている。そうやって、超人レベルのことを達成するよう自分に課し、できないたびに怠惰な自分を責めるのだ。
私たちはみんな、怠惰について誤った信念を植えつけられてきた。現代の文化では、強い意志や根性さえあれば誰でも成功できるとされ、限界まで自分を追い込むのが美徳で、気楽にやるより価値が高いとされている。
どんな場合も自分の限界を持ち出すのは怠惰さの証拠で、そんな人には愛情や慰めは不要だと教え込まれてきた。これが「怠惰のウソ」である。「怠惰のウソ」は社会に満ちていて、そのせいで私たちは自他に厳しくなり、ストレスを抱え、無理をして、それでもまだ努力が足りないと考える。
この「怠惰のウソ」を乗り越えるためには、まず「怠惰のウソ」に向き合い、それを理解する必要がある。
