敗戦後の混迷期をたくましく生き抜いた女性たちがいる。歴史の中に埋もれた女性の評伝を執筆する文筆家の平山亜佐子さんは「終戦直後、ストリップのブームが起きた。メリー松原は望んでヌードダンサーとなり、独自の衣装やダンスを考案した」という――。
公演「女は騙せない(そうかしら):YOU CAN'T FOOL A WOMAN.」(日劇)パンフレット、1956(昭和31)年6月
公演「女は騙せない(そうかしら):YOU CAN'T FOOL A WOMAN.」(日劇)パンフレット、1956(昭和31)年6月

伝説的な「ストリップの女王」

第1回:メリー松原(1930年1月2日~不明)

メリー松原の本名は松原栄子、1930(昭和5)年1月2日に東京下谷で生まれた。

兄弟構成などはわかっていないが、本人いわく父は大蔵官僚で、比較的裕福な暮らし向きだったようだ。ヌードダンサーといえば貧しさから脱ぐイメージがあるが(そしてそういう娘も少なくなかったが)、メリーはそうではなかった。

幼いころから踊ることが好きで、12歳頃にはエリアナ・パヴロバにバレエを習ったという。パヴロバはロシア革命を逃れて来日した「日本バレエの母」と呼ばれるロシア人バレリーナだ。メリーが12歳になる前年の1941(昭和16)年に慰問先の南京で客死しているが、数え12歳ということなら最晩年に間に合う。

その後、新宿の角筈つのはずにあった精華高等女学校に通い、16歳のころに早大生相手に初恋を経験(後に相手は沖縄戦で戦死)。1944(昭和19)年3月に女学校を卒業すると「徴用逃れで」貴族院速記養成所を出て1年ほど(半年説もあり)国会で速記者をした。父は、これでいいところへお嫁に行けると喜んだという。終戦の玉音放送は速記の練習中に聞いた。なお、『貴族院速記練習所参議院速記者養成所五十年史』を繰ってみると、松原栄子の名前はない。中退者、辞退者も細かく記載されていることから、どうやらここを出たわけではなさそうだ。

終戦後は進駐軍に反発したが…

終戦を迎え、速記者として議事堂に通う日々が始まったが、わが物顔で闊歩しては女性たちに口笛を吹くGI(進駐軍のアメリカ兵)たちにいらだった。戦中は威張っていた日本人男性が彼らにペコペコしているのにも腹が立った。「何さと思ったわね。正直いって……あんたたちに負けたのは日本の女じゃない。男の兵隊なんだって、単純に思ったの」と後にメリーは語る。そのうち、地味な仕事に飽きて速記はやめてしまった。

1946(昭和21)年3月30日、メリーの目に「アーニーパイル劇場専属舞踊団員募集」という新聞広告が飛び込んできた。アーニー・パイル劇場は有楽町にある元東京宝塚劇場、1945(昭和20)年10月にGHQに接収され、この年に沖縄戦で亡くなったアメリカ人ジャーナリスト、アーネスト・パイルにちなんで改称された進駐軍向け慰安施設である。日本人立ち入り禁止(オフ・リミット)だが、日本人職員は最大時約650人いたといわれている。

1946(昭和21)年のアーニー・パイル劇場。撮影:Robert V. Mosier。『モージャー氏撮影写真資料』 国立国会図書館デジタルコレクション、1946年 
1946(昭和21)年のアーニー・パイル劇場。撮影:Robert V. Mosier。『モージャー氏撮影写真資料』 国立国会図書館デジタルコレクション、1946年 

アーニー・パイル劇場のダンサーに

2月に日劇や松竹のダンサーを集めて第1回公演「ファンタジー・ジャポニカ」を開催したものの専属ダンサーの常設が課題となり、広告を出したのだ。

募集要項には「歌手・踊子(男・女)数十名(素人可)五尺二寸以上(約158センチ以上)」とあり、審査員として伊藤道郎、東勇作、花柳壽二郎など8人が発表された。

伊藤道郎は1911年に19歳で渡欧し、パリ、ドイツ、英国で舞踊と前衛芸術に触れたのち、アイルランド人作家イェイツと能研究を行った国際的ダンサーである。渡米後は舞踊家・演出家として活躍し、ニューヨークやハリウッドでスタジオを開き、ブロードウェイでも振付師として活動する。第二次大戦中は日系人として強制収容され、1943(昭和18)年に帰国。経歴を買われてアーニー・パイル劇場に召喚された。

面接で応募動機を聞かれたメリーは「給料がいいからです」と明言し、体つきを誉められ、「女学校時代からオッパイだけは大きくて……身体検査が大きらいでした」と答えて合格。3日続いたテストで採用された一期生は女性60人、男性10人だった。

両親は「外人に裸踊りを見せるな」

喜んだのもつかの間、親には「何が悲しくて外人に裸踊りを見せなくちゃならないんだ」と泣かれた。露出度の高いレビューの衣装は両親にとっては裸同然だった。

アーニー・パイルの女性ダンサー「アーニエッタ」たちには、タップダンスをはじめとする厳しい練習が待ち受けていた。通例では数日の練習で本番に臨んでいたが、ここでは必ず1カ月は練習に充てられた。本番のショーは月に10日ほどで給料は3000円、若い女性にしては高い方だったが、子どもを抱えた未亡人などは急激なインフレに対処できず、途中で脱落した。

メリーは生活の心配はなかったものの先生や先輩のしごきに耐えかねた。ダンサー仲間からもっと稼ぎのいい仕事があると誘われ、あっさり舞踊団を辞めて日本演藝社に入社。GIの運転するトラックに乗って米軍基地を回った。このころ出会ったのが、同じアーニー・パイル舞踊団出身のタップダンサー、矢野英二だった。

矢野は戦前は日劇ダンシングチームにおり、戦後満州から引き揚げてアーニー・パイル舞踊団に入団、その後はフリーランスで活動していた。二人は親しくなり、新宿や銀座で映画やショーを見ては勉強した。

1947(昭和22)年1月15日、メリーの運命を変える出来事が起こる。

女性が胸を露出する「額縁ショー」

新宿帝都座(現「アップル・ストア新宿店」)5階の小劇場で開催された「泰西名画アルバム」と題するショーを見たのだ。この日、定員420名のスペースに2000人が押しかけ、5階の入り口から階段を通って帝都座の裏まで列ができた。彼らのお目当ては額縁ショー「ヴィナスの誕生」。仕掛けたのは、元東京宝塚劇場の支配人で日劇ダンシングチームの育ての親、秦豊吉だった。秦はこのとき公職追放中だったが、小さい劇場ならではの新機軸を狙い、まんまと大当たりをとった。

内容は他愛ない。カーテンが開くと大きな額縁のなかにショーツとガーターストッキングをつけただけの女性(中村笑子)が腕で胸を隠して立っている、ただそれだけである。客席は緊張と集中で静まり返った。10秒か20秒でカーテンが閉まると、ため息ともどよめきともつかない声がもれたという。

翌月の「ル・パンテオン」では甲斐美春(後にはじめ、美和と改名)が胸を露出、下腹部は大きな帽子でかくしてたたずんだ。ピンクやブルーの照明が当たり、幻想的な雰囲気だった。

当時、目撃した芸能評論家の橋本与志夫曰く「つい、二、三年前まではジャングルや満州の荒野で、鉄砲をかついで、生死の境目を歩いてきた人たちが見たんですから、頭に血がのぼったのも、無理ありません。今まで罪悪視されていたものを、美しい姿として見せたから驚いた。この世のものとは思えぬほど美しかった」(「芸能史を歩く 昭和22年1月」)。

新宿帝都座の「人気沸騰の額縁ショー」(撮影:林忠彦 1947年)
新宿帝都座の「人気沸騰の額縁ショー」(撮影:林忠彦 1947年)(写真=『日本の写真家 25 林忠彦』岩波書店/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

GHQはストリップを許容した

頭に血がのぼったのはメリーも同様だった。一緒に見に行った矢野に、ただ立っているだけではなく、美しく踊って女性美を出したらいいのではないかと言ってみた。やりたいとまでは言わなかったが、矢野は「ぜひあなたがやってごらんなさい。日本ではまだやらないことだけど、非常にいいことだから」と促した。

このアイデアは方々で起こったようで、モデルを酔わせてふらふらと動かしたり、ブランコに乗せてみたりするショーが現れた。みんな、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)がどこまで許容するか手探りの状態だった。おとがめなしとわかると、3月には日劇小劇場で「りべらるショー『院長さんは恋がお好き』」にて、鈴木好子がヘソを見せてベリーダンスをしながら衣装を脱ぎ、最後の一枚になったところで会場の照明が落ちるという演出がなされた。いわゆるストリップ・ティーズだが、この時点ではまだそのような呼称はなかった。

銀座や新橋のキャバレーで脱ぐ

メリーは銀座や新橋のキャバレーで踊った。衣装も自分で作った。あくまで肉体美の追求のつもりだったが、周囲の反応は冷たかった。踊り子仲間からは「呆れた、凄いもんだ、人前であんな恥さらしをするなら、夜の女にでもなったほうがましだ」と言われた。親戚や両親からも「そういうみっともないことはしてくれるな」と懇願され、いっそやめてしまおうかとも思ったが、ショーの熱気はほかでは味わえないものだった。

この年の12月1日、芝田原町にあった国際観光ホテルの地下で会員制の秘密ショー「芸能懇談会」に出演した。会場には大野伴睦や児玉誉士夫をはじめ、政府高官など300人がひしめき合った。演し物は、壺を持ったメリーが森蔭の湖水で水浴びをして帰る「湖に水浴する女」。メリーと矢野は半年前からコンビを組んでこの演目を千葉や茨城、都内の宴会場などで上演していた。

会員制の出し物で警察に捕まる

衣装は乳房を薄い布で覆い、乳首にスパンコールをつけ、下腹部は小さな三角形のスパンコールの布で覆ったもので、後ろ姿は完全な裸だった。会員制だから大丈夫と言われて出たが、場内の電気が点いた途端に私服警察に取り押さえられた。ホテルの周囲にはすでに20名の警官が取り囲んでいた。ふたりは主催者らとともに公然わいせつ罪で検挙され、愛宕署に3日間勾留されて罰金500円を支払った。政治家たちにはおとがめなしだった。

ヌードショーはドル箱企画となり、日劇、浅草常盤座、飛行館、東横劇場など都内で9カ所の劇場が追随し、全国では78カ所に増殖した。また、8月には日本初のストリップ専門劇場、浅草ロック座も誕生した。

公演「女は騙せない(そうかしら):YOU CAN'T FOOL A WOMAN.」(日劇)パンフレット、1956(昭和31)年6月
公演「女は騙せない(そうかしら):YOU CAN'T FOOL A WOMAN.」(日劇)パンフレット、1956(昭和31)年6月

下腹部を布で覆う「バタフライ」

メリーはこのロック座で翌年3月、「ハイライトショー」と銘打ち、矢野の振り付けで「南国の処女」を踊った。このとき初めて下腹部に付けるスパンコールを蝶の形に作り、バタフライと呼んだ。以後、バタフライは下腹部を覆う布の通称となった。

公然わいせつ罪で捕まったという噂の踊り子を一目見ようとロック座には客が大挙した。くたびれた背広と帽子を被った永井荷風もよく楽屋に来た。読み方を知らない踊り子は「ニフウさん」と呼んでいた。

メリーは池袋文化劇場にも出演。矢野演出の「タッセルショー」で客席に降りて客の頬をつつき、顎を撫でるなどして踊った。