2月18日、第2次高市内閣が発足した。皇室問題にはどのような影響がもたらされるか。皇室史に詳しい島田裕巳さんは「皇室典範の改正が国会において議論され、保守だからこそできる重大な変革となる。ひいてはこれが、『愛子天皇』の実現を導いていくだろう」という――。

皇室典範改正への高市政権の動き

歴史が変わろうとしている。

2月24日、女性で最初の宰相となった高市早苗首相が、衆議院本会議の代表質問で、「皇室典範改正の議論が進展し、速やかにまとまることを期待する」と答弁したからだ。高市首相は、18日の特別国会冒頭の施政方針演説でも、皇位継承の安定化のために皇室典範の改正に強い意欲を示している。かなり前のめりである。

首相の念頭にあるのは、皇族が旧宮家の男子を養子とし、皇族の数を増やすことである。それは「男系男子」での継承にこだわる保守派の主張でもある。

しかし、皇室典範の改正は、保守派が基盤としている伝統を突き崩すものであり、かえって愛子内親王の天皇即位への道を開いていくことになる。

古事記』に記された神話では、岩戸に隠れてしまったアマテラスを引き出すために、アメノウヅメが猥雑わいざつな踊りであたりをわかす場面が出てくる。高市首相は、このアメノウヅメの役割を果たすことになるかもしれない。アマテラスを祖神とする「愛子天皇」が出現するからである。

今回はそれについて、順を追って考えていきたい。

天皇陛下の66歳の誕生日を祝う一般参賀で、訪れた人たちに手を振られる天皇、皇后両陛下と愛子さま=2026年2月23日午前、宮殿・長和殿
写真提供=共同通信社
天皇陛下の66歳の誕生日を祝う一般参賀で、訪れた人たちに手を振られる天皇、皇后両陛下と愛子さま=2026年2月23日午前、宮殿・長和殿

国会の決議で改正できる皇室典範

2月の総選挙で、自民党が多くの議席を占めた衆議院の森英介議長も、安定的な皇位継承の議論について「先送りは許されない喫緊の課題だ」と述べ、国会の総意を早期に取りまとめるために努力すると就任後の会見で語った。

どうやら、旧宮家の養子案実現にむけて国会は動いていきそうだ。これについては今まで、自民党と立憲民主党との間で見解の相違が見られた。だが、立憲民主党が合流した中道改革連合が大幅に議席を減らしたことがそこに影響し、自民党の主張が通りそうな気配である。

もちろん、これは多数決で決めるべき問題ではなく、幅広い合意が必要である。

高市首相は憲法の改正にも意欲を示しているが、憲法の改正になると、衆議院と参議院で3分の2以上の賛成が必要である。衆議院で自民党は3分の2以上の議席を占めるようになったが、参議院ではそうなっていない。しかも、憲法改正案は国民に示され、国民投票で過半数の賛成が得られなければ改正には至らない。かなりハードルは高い。

皇室典範には、そうしたハードルはない。皇室典範は“一般の法律”で、国会が決めれば、それで改正できる。

ただし、皇室典範が「皇室法」ではない点は無視できない。「典範」と称する法律は他に存在しない。それも、明治の時代に旧皇室典範が定められたとき、それは法律ではなかったからである。

では、何だったのか。

天皇家の「家憲」から戦後に一般の法律へ

1889(明治22)年に旧皇室典範が定められたとき、それは天皇家の「家憲」と位置づけられた。家憲とは、それぞれの家で守るべき生活の指針である。たとえば、旧財閥の一つ、三井家には「宗竺そうちく遺書」という家憲がある。これは、創業者である三井高利の遺言であった。

旧皇室典範が家憲である以上、それは官報には掲載されず、同時に制定された大日本帝国憲法とともに官報号外に掲載された。旧皇室典範は法律ではないので、当時の帝国議会で審議して、改正ができるものではなかった。したがって、旧皇室典範は、その後、増補はされたものの、本文は一度も改正されないまま戦後を迎えた。

旧皇室典範(1889年の原本)
旧皇室典範(1889年の原本)(写真=アジア歴史資料センター/内閣/PD-Japan/Wikimedia Commons

戦後になると、旧皇室典範は廃止され、1946(昭和21)年に日本国憲法が公布されると、憲法附属法として新しい皇室典範が制定された。これによって皇室典範は天皇家の家憲ではなくなり、国会で改正できる一般の法律となったのである。

その際に、皇室典範ではなく、「皇室法」といった名称が使われていたとしたら、その後の扱いは随分と違うものになっていたかもしれない。だが、「典範」という呼び方が残ったことで、戦前の伝統を引きずる形になった。内容も、旧皇室典範と大きく変わらなかった。新しい皇室典範も、今まで一度も改正されていないのである。

平成に起きた“改正”間近となった出来事

ただ一度だけ、皇室典範の改正が行われそうな出来事が起こった。それは、現在の上皇が譲位したときのことである。

平成の時代の最後、まだ天皇の地位にあった上皇は、高齢になり、象徴としての天皇の役割を十分に果たすことができなくなってきたとして、譲位を希望した。

現在の憲法の下で、天皇は「国政に関する権能を有しない」とされている。したがって、天皇が自らの進退について意見を述べることは、それに反する。そのため、扱いが難しい事柄になり、それについて検討する有識者会議が設置された。

皇室典範においては、その第四条において、「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」と規定されており、生前に譲位することは想定されていない。それは旧皇室典範でも同じだった。ただ、それが古来の伝統というわけではない。

明治時代以前には、天皇が生前に譲位することは当たり前に行われていた。譲位した天皇は58人で、全体の半分近くにのぼる。平安時代に、藤原摂関家に代わって上皇が「治天の君」として権力をふるったのも、譲位を利用してのことだった。

しかし、明治に時代が変わると、天皇は亡くなるまでその地位にとどまることとなった。大正天皇が病によって天皇としての役割を果たせなくなったときにも、譲位することはなかった。これは日本国にとって危機だった。

近代初の譲位を成した皇室典範特例法

危機は、皇太子(のちの昭和天皇)が摂政となることで回避された。

平成の時代、現在の上皇が譲位の意向を示したときにも、摂政を置くアイデアが出た。だが、上皇はそれを拒否した。そうなると、皇室典範に譲位の規定がない以上、それを改正するしかなかったはずである。しかし、天皇の意思による譲位を認めると、それがくり返され、政府の圧力で譲位したり、天皇が譲位をほのめかして政権に影響を与える可能性が出てくる。そこで、皇室典範は改正されず、一代限りの特例法によって譲位が実現したのだった。

皇室典範が改正されなかったのは、いま挙げた理由もあったことだろう。だが、もともと天皇家の家憲であったという重みが、そこに加わっていた可能性がある。旧皇室典範が存在した戦前の時代には、天皇は「君主」であり、一般の国民は、それに従う「臣民」だった。臣民が君主の定めたものを改めてしまうことは畏れ多い。その感覚が、どこかで働いていたように思われるのだ。

旧皇室典範が定められたとき、同時に大日本帝国憲法が制定された。この日本で最初の近代憲法を作り上げる際に、その作業に当たった伊藤博文などは、海外では宗教、つまりはキリスト教が国家を支える「機軸」になっているが、日本の宗教はその役割を果たせないと考え、皇室に機軸の役割を求めた。長い歴史を経てきた皇室こそが、日本の伝統を支える基盤になるというわけである。

保守だからこそできる皇室典範改正

だからこそ、大日本帝国憲法の冒頭では、天皇の地位が万世一系で、神聖なものであることが強調された。日本国憲法では、そうした考えはとられなくなったものの、天皇についてはやはり冒頭で言及され、日本国の象徴、日本国民統合の象徴と定められた。その点では、依然として皇室が日本の戦後国家においても機軸の役割を果たしていると見ることもできる。

保守派は、そうした皇室の伝統の要になるのは、歴史上ずっと「男系男子」で皇位が継承されてきたことにあるという立場をとってきた。

しかし、それを規定した皇室典範を改正することは、過去における天皇の決定をくつがえすことにもなってしまう。皇位継承の安定化をめざして皇室典範を改正することは、伝統を破壊する側面を持っている。果たして、保守派の間で、そうしたことが議論になったことはあるのだろうか。

そこに決定的な矛盾があるのだが、高市首相が先導する形で皇室典範の改正がなされたとしたら、それは重大な変革である。旧皇室典範から考えれば、130年以上一度も改正されてこなかったものが変わるからである。もし左派の政権が改正に乗り出せば、保守派はそれを伝統破壊として厳しく糾弾し、なんとしても阻止したであろう。その点では、保守派しか、それはできない。高市首相はそこを突いたのだ。

自民党・高市早苗総裁(2025年11月)
自民党・高市早苗総裁(2025年11月)(写真=外務省/南アフリカ駐在日本大使館/内閣広報室/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

「女性・女系天皇」への道となる首相の“意欲”

高市首相は、衆議院を解散したときにも見られたように、自分だけで決断したい政治家である。

初の女性首相として大きな功績を上げたい。その点で、皇室典範の改正にこぎつけたとしたら歴史に名が残る。憲法改正まで実現したら、それはとんでもない大事件である。

ただ、旧宮家の養子が可能になったとしても、前にも述べたように、養子になる人間が現れる保証はない。また、仮に現れたとしても、男系では室町時代まで遡らなければならないわけで、現在の皇室との近さを強調するには明治天皇と女系でつながることをアピールしなければならない。

それも、「女性・女系天皇」への道を開くことになるが、養子が現れず、また、現れても国民に認められなければ、次の手を打つしかなくなる。

「女性宮家」の創設が導く「愛子天皇」

もう一つ国会で議論されてきたのは、女性皇族が結婚後も皇室に残る「女性宮家」の創設である。

これについては、配偶者と子どもを皇族とするかどうかで議論になってきた。ただし、養子案が不調で、皇族の数が増えないのであれば、それを認めるしかない。認めなければ、皇族の数はまったく増えないのである。

いったん皇室典範が改正されれば、その伝統としての重みは失われ、状況に対応するために次々と改正していくことが可能になっていく。

女性宮家が創設され、その配偶者や子どもが皇族になるのであれば、それは、「女系での継承」が容認されたことになる。それは、女性天皇はおろか女系天皇への道も開くことになる。

皇室典範を改正することは、これまでの伝統を破壊し、新たな伝統を生み出す方向に作用していく。それは高市首相に対する支持が高い間にしか実現できない。となると、まさにそれは喫緊の課題である。

特別国会は18日に召集され、会期は7月17日までの150日間と定められた。この長期にわたる国会が開かれている間に、皇室典範の改正も議論される。実際の改正は次の国会かもしれないが、時代は「愛子天皇」が実現される方向に、着実に動いているのである。

天皇皇后両陛下並びに愛子内親王殿下(2026年2月23日/出典=宮内庁Instagram[@kunaicho_jp])