※本稿は、三橋健『神様に願い事を叶えてもらう!厄除け・厄祓い大事典』(青春出版社)の一部を再編集したものです。
「神社へ行こう」と思った瞬間から始まっている
ご神前での正しい参拝作法を知る前に、まず「神社へお参りに行く」という心がまえを持つことが必要です。
これは、神詣だけでなく、山登りも同じことです。山登りは「山へ登ろう」とする気持ちがおきたときからはじまっています。そこで、山登りのための準備をじゅうぶんな注意をはらいながら行うことになります。それを、どこかへ遊びに行くような格好で山登りに行くなら、山の神様の怒りにふれて遭難することになります。
最近、富士山に「弾丸登山」する人が増えているようです。十分な準備もしないで、富士山に日帰りで登ろうとする人たちです。なかには遭難したり滑落したりする人もいるそうで、これは命を無駄にする行為にほかなりません。
このように、山登りが「山へ登ろう」と決意したときからはじまっているように、神詣も、神詣をしようと思い立ったときからすでにはじまっているのです。賽銭箱の前で柏手を打つことだけが神詣ではないのです。
そこで、正しい神社参拝を知る必要があります。神社へ向かうときは参道を歩いていきますが、この参道は神詣にとってとても重要な役割をはたしています。
鳥居をくぐる前に、衣服をととのえてお辞儀するべき理由
玉砂利を敷きしめた参道を歩いているうちに、私たちの心はおのずと浄められていくことを感じるでしょう。そして、いよいよ神様とのふれあいのときが近づくという緊張感があふれてきます。そのような緊張感は鳥居をくぐるたびごとに深まっていくものです。
明治神宮などでは鳥居の柱に榊さかきの枝をとりつけてありますが、この榊は私たちの罪や穢けがれや災いを祓ってくれる働きをしています。だから、鳥居をくぐるごとに心身が浄められていくことになります。
また、鳥居は、神社のご門だと考えられています。そのご門である鳥居には神様の世界と人間の世界を区別する意味があります。
鳥居をくぐるたびに、私たちの罪や穢れや災いが祓われていき、神様の前で、より清らかな心でお祈りができるというわけです。だから、鳥居をくぐる前に、衣服をととのえ、軽くお辞儀をします。これを「一揖」あるいは「会釈」といいます。
参道の真ん中を通ると、ご利益が期待できない
神社に参拝するとき、本来は、一の鳥居から玉砂利をふみながら一歩一歩と進んでご神前に向かっていくのが正式です。この参拝の道を参道といいます。その参道は一の鳥居をくぐり、拝殿の前に置かれた賽銭箱の前までの道のことです。この、「長い参道を歩くこと」に意味があるのです。
だから、昔は、どんなに身分の高い人であってもかならず馬から降りて参道を歩きました。鎌倉の鶴岡八幡宮の場合でいいますと、社頭よりかなり離れたところに下馬がありました。実際に、現在の横須賀線のガード近くに「下馬」という地名が残っています。
つまり、貴人といえども馬から降りて、歩いてお参りしたということです。ですから、かならず参道は歩いて行かなければなりません。
また、参道の真ん中は「正中」といって神様のお通りになるところですから、そこを歩くのは慎まなければなりません。神様の通る道を私たちが歩いたとあっては、神聖を冒涜することになります。当然、ご利益も期待できなくなってしまいます。
神社の境内に、しばしば「太鼓橋」を見かけることがあります。太鼓橋も鳥居と同じように、人間の世界と神様の世界との「間」をあらわすものです。
草木や石ころも穢してはいけない
時間とか空間という概念は西欧的な考えでしょうが、日本では古くから、この時間と空間を一つにした「間」という考え方がありました。
その「間」を具体的にあらわしているのが太鼓橋です。私たちはその太鼓橋を渡ることによって、神様のおられる世界に入ることになります。
神様の世界は神聖な場所ですから、たとえ一草一木、石ころ一つにいたるまで、神様のものです。ましてや、池のなかの魚をとったりすることは、神様を穢し、傷つけ、罪を犯すことになります。幼い子どもを連れて行くときなどは、あらかじめ注意しておくといいでしょう。
さて、参道を進んでいくと、手水舎があります。清潔な水が水盤にたたえられています。そこには柄杓がそなえてありますから、右手で水をくんで手水の作法をいたします。
まず左手を洗い、次に柄杓を持ちかえて右手を洗います。そして、次に左の手のひらに水を受けて、その水で口をすすぎます。このときに柄杓を直接口につけてはいけません。最後に柄杓を立てて、柄杓の柄の部分を残りの水で洗い、柄杓を元のところに伏しておきましょう。
拝殿前のお辞儀は、会釈ではなく90度で
手水の作法が終わり、拝殿へと進みます。拝殿の正面には賽銭箱が置いてあり、その真上には鈴が吊るされています。鈴には長い紐がついています。これを「鈴緒」といいます。その紐を引いて鈴を鳴らします。お賽銭を投げ入れたら、二度深くお辞儀をし、つぎに真剣な気持ちで二度、手を打ちます。これを「柏手を打つ」といいます。なお、このときのお辞儀は「拝」といって腰を90度折って敬虔な気持ちを表します。
「拝」が終わったら、両手を合わせて、それを胸の高さまで上げて、心のなかで神様にお礼を述べたり、祈願をしたりします。そして最後に、もう一度、深くお辞儀をしてさがってくるのです。
これは、神詣、すなわち神様とのふれあいのための、もっとも基本的で重要な作法です。
参拝(祈り)の作法は宗教や宗派によっていろいろと異なりますが、共通する点は「合掌」すなわち「両手の掌を合わせること」なのです。「掌」は「たなごころ」ともいうように、そこには「心がこもっている」ことを意味しています。
手を打つときは“快い響き”で
これは、神様への「帰順」の心を形にあらわしたものです。さらにいえば、「神様のお言葉に服従いたします」という気持ちを形であらわしたものともいえます。要するに「まこと」の気持ちをあらわしているということになります。
「左右」という二文字を、日本人は「ま」と読んできました。これは、左の手と右の手が一つに合わさった姿です。左と右が合わさった姿が「ま(左右)」の姿なのです。目に見えない「まことの心」を目に見える形に表しているということになります。
このような参拝の方法はほかの宗教にも見られます。仏教では数珠を両手にかけますし、キリスト教ではロザリオを持って祈ります。これらは神道の柏手を打つ姿と、作法こそちがっても、その心は一つなのです。仏教徒が数珠を手にかけている姿は、仏に対して服従を誓っている姿です。
また、神道者の柏手の快い響きも、神様への服従の音なのです。手のひらにやましいものを持って打てば、どうしても快い響きとはならないものです。
このように、二拝・二拍手・一拝したあとは、すがすがしい気持ちになって、参道の中央を避けて右端か左端を歩いて下げ向こうしてくるのがよろしいのです。そして、家に帰り着くまでが、一連の神詣の作法の流れなのです。神社の参拝は、前にも申したように、家を出て、家に帰るまでをいうのです。
かつての賽銭は「お米」だった
大切なことなので、拝殿の前に置かれている「賽銭箱」そして「賽銭」について、もう少し補足しておきたいと思います。お賽銭の古い形は「お米」でありました。
昔から、日本各地で、収穫した新米を神前にお供えしてきました。その供え方の古いしきたりの一つとして「おひねり」というやり方があります。これは、お米を白紙にキャンディのようにつつんで、ひねって供えるというやり方です。
そもそも賽銭箱には、はじめは神前に海や山の幸を奉納していましたが、貨幣経済が発展していくにともない、お米よりもお金が増えるようになり、現在のような形につくられたものと思われます。
いまでも神様に奉納する金銭を「初穂料」といいますが、それはお米を納めていたときの名残です。
さて、お賽銭を“神恩感謝に対する寄付”のように考えている方も多いようですが、実はそれだけではありません。お賽銭には罪や穢れや災いをお賽銭に託して、祓ってもらいたいとの願いも込めております。
そのことはお賽銭を投げるという行為に見られます。
賽銭を投げることで、罪や穢れを祓う
神社側では「お賽銭」は神様への感謝の意を表すものですが、「投げないで静かに賽銭箱に入れてください」と注意書きをしてあるところもあります。しかし、依然としてお賽銭を投げる人が多いのは、長いあいだの習慣が知らず知らずのうちにそのようにしているのだと思います。つまり、賽銭に罪・穢れをたくして祓うという考えです。このように、お賽銭は投げるところに意味があるともいえます。
その根底には、罪や穢れや災いを除去するという、いわば「厄祓い」の考え方が流れているからなのです。つまり、厄を「投げ捨てる」のです。『古事記』によると、須佐之男命は千位の置戸(罪を祓い、あがなうために出すたくさんの品物)を科せられ、罪をあがなったとあります。
このことからもわかるように、罪や穢れや災いを付着させた品物を神前に差し出すことで、罪や穢れや災いを祓うとの意味がここには込められています。
魂はすごく軽いもので、空中へふわりと遊離してしまうので、なんとかしてとどめたいとの願いのあらわれが「ひねる」ということに表現されているように考えられます。
また、「おみくじ」を境内の木などに「結び」つけていくのも同じ意味であり、自分の魂が飛び散らないように、木の枝に結びつけるという古い信仰にもとづくものです。
鈴の音は「魔除け」「神霊を発動させる」説がある
そのことによって神社の樹木をそこなうことがあってはいけないのはいうまでもありません。そこで、現在ではおみくじを結びつける場所を設けている神社も少なくありません。
なお、賽銭箱の真上に吊るしてある鈴ですが、これを「御鈴」といいます。少し補足しておきますと、鈴についている紐を「鈴緒」とか「叶緒」といいます。
また、参拝するときに鈴を鳴らす理由については諸説ありますが、『倭訓の栞』によると、「鈴の清々しい音は魔除けの霊力を持ち、神様の心をおだやかにする作用がある」と書かれています。巫女や神楽男が神楽を舞うときには、「神楽鈴」をシャンシャンと鳴らします。これも、御鈴を鳴らすのと同じような意味合いがあります。神楽鈴を鳴らすことによってもたらされる霊力によって、その場を清浄にするのです。
また、鈴の音を鳴らすことで、神霊を発動させるとする説もあります。
「御鈴」の鳴らし方はさまざまあり、決まった作法はありません。お賽銭を投げてから御鈴を鳴らす人もいますし、神様に祈願したあとに鳴らす人もいます。御鈴は、そもそも神聖なものです。大きな音を出してもいいですが、乱暴にあつかわないようにしましょう。
