「ばけばけ」でヘブンが異様なほど大切にする写真
NHK連続テレビ小説「ばけばけ」の視聴者は、レフカダ・ヘブン(トミー・バストゥ)と、その女中になった松野トキ(髙石あかり)が、いずれ結ばれて夫婦になることを知っている。だが、それにしては、ヘブンが妙なほど大切にしている女性がいることが、気になるのではないだろうか。写真立てに入れられた写真が、いつも文机の上に置かれている女性である。
第9週「スキップ、ト、ウグイス」(11月24日~28日放送)では、トキと錦織友一(吉沢亮)に薦められた松江の城山稲荷神社を参詣するなどして、ヘブンは松江、そして日本への関心をさらにかき立てられていった。しかし、「松江、本当におもしろくて、すばらしい街。いつか君と歩きたい」と思いを語りかける相手は、やはり写真の女性だった。
第8週「クビノ、カワ、イチマイ」(11月17日~21日放送)でも、同様のこだわりは印象的に描かれた。ビールについての知識がないトキが、瓶を振って中身を吹き出させてしまったとき、ヘブンが必死に守ったのがこの写真だった。
ヘブンのことをもっと知りたいといって錦織や教え子らが訪ねてきたときもそうだった。ヘブンが自分についてのクイズを次々と出し、正解できない錦織は「それ(写真の女性)を問題にしてもらえませんか。その方が奥様かご姉妹かそれとも」と要求したが、ヘブンはあきらかに戸惑った。そこでトキが「このお写真のことは、伺わないほうがいいかと」と助け船を出したのだ。
ビールがかからないように必死に守るヘブンを見て、よほど大事な人だと感じたからだが、トキはこの配慮を通じて、ヘブンの信頼を勝ち取った。
モデルになったのはハーンの部下の女性
その女性、イライザ・ベルズランド(シャーロット・ケイト・フォックス)のモデルは、エリザベス・ビスランド(1861-1929)という。実際、ヘブンのモデルであるラフカディオ・ハーンとは、若い時期からたがいに影響をあたえ合った。
ルイジアナ州のプランテーションに生まれたビスランドは、南北戦争で疎開したのちに実家が困窮。10代にして文筆の世界に足を踏み入れたが、そのきっかけは、ハーンが書いた記事を読んだからだったという。その後、タイムズ・デモクラット社という新聞社に記事を投稿するようになり、まもなくニューオーリンズの同社に赴いて入社する。そこで文芸部長を務めていたのがハーンだった。
その後、ニューヨークに出て、新聞「ザ・サン」や雑誌「コスモポリタン」などの記者や編集者を歴任し、1889(明治22)年、大きな話題をつくった。出版社のニューヨーク・ワールドがネリー・ブライという女性記者を世界一周の旅に送り出すことになった。ジュール・ヴェルヌの小説『80日間世界一周』より短い期間で世界を一周するという挑戦で、このとき「コスモポリタン」も対抗して記者を派遣することを決定。選ばれたのがビスランドだった。
結局、ビスランドはブライの72日と6時間10分に勝てなかったが、それでも76日半で世界を一周した。
息子は「一種の恋愛」と記した
だが、ハーンとの関係上で大事だったのは、世界一周を成し遂げたこと自体より、太平洋を渡って最初に到着したのが横浜だったということだった。結局、日本に2日間滞在した彼女は、その後、「コスモポリタン」誌上に12ページにわたる日本滞在記を掲載する。
ハーンが来日したのは、ビスランドがはじめて日本の土を踏んだ翌年、1890(明治23)年のこと。彼女から、日本という国がいかに文明社会に汚染されておらず、清潔で、美しいか、ということを聞かされ、背中を押されたようだ。
その後、2人は生涯にわたって深い交友を重ねる。ただし、それぞれ日本とアメリカに離れて暮らし、その後は直接会うことは叶わなかったのだが、おびただしい数の往復書簡を残している。それについて、ハーンの長男の小泉一雄は著書『父小泉八雲』にこう書いている。
「エリザベス・ビスランド女史との親交は、あるいは一種の恋愛ともいえるかもしれぬ。しかし、それは白熱の恋ではない。沢山の蛍のごとき清冽な恋である」
違法と知りながら結婚→破綻
それが意図してのプラトニックラブだったのか、2人の距離が離れていたがゆえにそうならざるをえなかっただけなのか、わからない。ただ、ハーンが来日前に、ビスランドとの結婚に踏み切れなかったのは、最初の不幸な結婚の記憶が、足かせになっていたからかもしれない。
若きハーンは1874(明治7年)に新聞社、シンシナティ・エンクワイアラー社の社員になり、翌年、黒人との混血女性アシリア・フォリーと結婚するが、当時のオハイオ州の法律では、白人と黒人の結婚は禁止されていた。このため、ハーンは解雇されてしまう。他社に転職はできたものの、3年後に結婚生活は破綻。ニューオーリンズに転居している。
結局、ハーンは1891(明治24)年中に、「ばけばけ」のトキのモデルである小泉セツと事実上の結婚を遂げ(ハーンが帰化して小泉八雲となり、戸籍上の結婚が認められるのは5年後の1896年)、同じ年にビスランドも法律家のチャールズ・W・ウェットモアと結婚した。
だが、前述のように、2人は結婚後もおびただしいまでに書簡を交換し合っている。心のなかの「思い人」はたがいに、ビスランドとハーンだったのか。ハーンの日本における9作目の著作で、1901(明治34)年に刊行された『日本雑記』は、ビスランドに捧げられている。
ビスランドによるハーンの遺族への献身
ハーンが日本に発って後、2人が会うことはなかったものの、もう少しで会える直前までは事が進んでいた。長男の一雄に短期でもアメリカの教育を受けさせたいと考えたハーンは、1902(明治35)年から1年または2年、アメリカで働けないかと考え、ビスランドに働き口を探してもらえるように依頼している。
その結果、ニューヨーク州のコーネル大学で20回の連続講義を行えることになったのだが、コレラが流行して中止になってしまったのである。ハーンが没したのは、その2年後の1904(明治37)年のことだった。
その後、ビスランドはハーンの遺族たちに大いに貢献した。まず1906(明治39)年に『ラフカディオ・ハーンの人生と書簡』(全2巻)を、1910(明治43)年には『ラフカディオ・ハーンの日本時代の書簡』を刊行し、その収益を小泉家に寄付している。
1作目がヒットした後、ビスランドはセツに宛てて、次のようにはじまる手紙を送っている。「『生涯と書簡』が好評で、あなたとお子さんたちに十分な利益になったことをとても嬉しく思います。親愛なるラフカディオも喜んでいることでしょう」(横山竜一郎訳)。
セツが抱いた複雑な思い
むろん、セツもビスランドに感謝の気持ちを記した手紙を送っている。1907(明治40)年4月3日付の手紙には、こう記されている。
「かねてより楽しみにしておりました、あなたが故人に傾けられたご支援の記念品(註・前述の『ラフカディオ・ハーンの人生と書簡』のこと)を手にした時には、ただなんとなくあなたの温かみに触れたように感じました。このような大いなる本を作るには実にたいへんな骨折りと、深い深い友情より来たのでしょう。このあなたの力を込めてくださった贈り物に対して、一生懸命感謝の気持ちを持ち続けるでしょう。私たちにとってこれほどの贈り物は世界にないのです」
その後、ビスランドは3回来日し、1922(大正11)年には、松江城の堀端にいまも公開されている「小泉八雲旧居」も訪ねている。
そんなビスランドに対し、セツが捧げた感謝の気持ちには、ウソや偽りはないものと思われるが、当然ながら、夫と彼女が精神的に深く結ばれていたことに、セツは気づいていたはずである。セツにとっては、感謝しつつも、複雑な思いをいだかざるをえない対象だったのかもしれない。