朝ドラ「ばけばけ」(NHK)では、ラフカディオ・ハーンの妻となる小泉セツをモデルに、トキ(髙石あかり)の最初の結婚、銀二郎(寛一郎)との関係が描かれている。歴史家の長谷川洋二さんは「旧士族同士の縁組は、ただセツに貧窮の何たるかを残酷に教えるだけだった」という――。

※本稿は、長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)の一部を再編集したものです。ドラマ「ばけばけ」のネタバレが含まれます。

寛一郎
写真=時事通信フォト
「ばけばけ」でトキの夫・銀二郎を演じる俳優の寛一郎。配信サービスFODの発表会に登壇、2024年11月26日

「ばけばけ」でも描かれた良縁祈願の結果

ある日、セツは2人の女友達と連れ立って、市街を出、南に向かう細く険しい道をたどった。松江から1里余りの佐草さくさの里に、名高い八重垣やえがき神社があり、八俣やまた遠呂智おろちを退治して結ばれた須佐之男すさのおみこと稲田姫いなだひめが祭られている。3人の娘たちは、この縁結びの神々に良縁を祈願するために来たのである。

うっそうと茂る神々の森を背に、古い社殿が立っている。3人はまず、この社に参拝し、その後、巨大な古木が生い茂る薄暗い森に入って、美しい青苔に覆われた細い道を歩き、森の一番奥にある鏡の池へと下って行った。

この神聖な池のほとりは、森でも最も木蔭の濃い所であるが、池の水が非常に澄んでいて、池の底や、そこにんでいるイモリをはっきり見ることができる。3人は、古くからの習わしに従って、それぞれ紙で小さな舟を作り、一厘銭を一枚ずつ載せて水に浮かべた。彼女たちはいずれも、間もなく紙に水が染みて一厘銭の重みで舟が沈み、池の底のイモリが近づいて来て舟に触れるかどうかと、固唾かたずんで見守った。

八重垣神社(松江市)
「ばけばけ」にも登場した縁結びで人気の八重垣神社(松江市)の「鏡の池」、周遊バスツアー「ばけバス~ 小泉八雲とセツゆかりの地を訪ねて~」プレスリリースより

セツは18歳のとき、28歳の婿養子を迎える

それは、もしイモリが自分の舟に触れてくれれば、神社の縁結びの神々が良縁を請け合ってくれたと、信ずることができたからである。セツの二人の友達の舟は、両方ともすぐに、浮かべた岸からごく近いところに沈んだ。一方、セツの舟はなかなか沈まず、浮かべた岸から遠く離れた、池のずっと端の方へ流れて行ってから、ようやく沈んだのであった。

セツの2人の友達は、それから間もなく、しかも近所の青年と結ばれた。そのうちの1人などは、すぐ隣の家に嫁として迎えられたものである。一方セツはと言えば、結局、はるかかなたの異国から来る男性と結ばれる宿命にあった。しかも、縁結びの神々の取り計らいは、どうやら一直線のものではなかったようである。というのも、セツが18歳になった時、因幡いなば(鳥取県東部)の貧窮士族である前田家と稲垣家との間に、28歳になる前田家の次男の為二ためじを、稲垣家の婿養子とするという話がまとまったからである。

小泉セツ
提供=小泉家
小泉セツ、20歳ごろ

最初の夫とは「物語好き」で意気投合したが…

幸福の女神がセツに微笑みかけているかに見えた。為二も物語好きで近松(近松門左衛門)の浄瑠璃物を愛読し、セツも勧められて、この江戸時代最大の戯曲作家の作品を読みもしたし、当時流行した六弦の月琴げっきんの弾き方を習い出しもしたからである。

しかし、実際には、この稲垣・前田両家の縁組は、ほどなく、ただセツに貧窮の何たるかを残酷に教えるだけであることが分かった。そのためにセツは、悪夢のような人生の悲惨に陥ったが、信じられないような運命の展開によって、その悪夢から一転し、八重垣神社の縁結びの神々が彼女に約束していた、真の結婚へと導かれたのである。

稲垣金十郎とトミ
提供=小泉家
小泉セツの養父母、稲垣金十郎とトミ

江戸時代の武家にあっては、原則として、父の家禄を受け継ぐ長男だけが、妻をめとり子供を持つことができたのである。従って、ほかの男の子たちが、家督を相続する男子がいない侍の家に迎えられれば、自分を幸運であると思ったのも道理であった。

借金を背負わされた夫は耐えきれず逃走

その後、時代は大きく変わったのだが、婿養子を迎えた稲垣家では、厳格さと気位を捨て得ない(セツの養祖父の)老万右衛門が、婿を家風に合わせようとしないではおれなかった。

稲垣万右衛門
提供=小泉家
小泉セツの養祖父、稲垣万右衛門

その上、婿の為二にしてみれば、養父の金十郎は家計のためといって何ら為すところがなく、家族全部が自分を頼りに暮らそうとしているように思われる。なるほど、姑のトミは縫い物でいくばくかの金は稼いだし、セツは家での機織に人並外れた精を出し、夜の床につくまでに、一反を織り上げずにはいなかった。しかし、稲垣家には、いわゆる士族の商法で失敗した時の負債があって、いつ払い終えるかさえ見通せなかった。その上、ちょうどその頃、セツの生家の小泉家が、惨憺さんたんたる零落にひんしていたのである。

一方、稲垣家の婿養子の為二は、どうにもならない貧窮にもはや耐え切れず、1年もたたないうちに、ついに出奔し行方をくらましてしまった。セツは今や、いかんともしがたい哀れな状況に置かれた。だから、やがて為二が大阪にいるということを耳にした時、なんとか旅費を苦面して大阪まで出向き、彼に会って、一緒に帰ってくれるように切に頼んだのである。

追いかけた夫を説得できず、身投げしようと…

しかし、その必死の懇願も冷たい言葉で退けられた。為二と別れて橋の上に立ったセツは、ひと思いに川へ身を投じようという衝動に駆られた。だが、その時ふと、年をとってゆく家族一人一人の顔が、頭に浮かんできたのである。自分という生活の支えを失ったら、彼らはどうなるのだろう……。セツは堅く心を決めて松江に帰った。そして、老いゆくばかりの親たちを養うために、必死に働きもし、また、どんな仕事でもした。

川沿いの古い家屋
写真=iStock.com/GI15702993
※写真はイメージです

間もなくセツは、戸籍上、為二と離婚し、それと同時に小泉家に復籍する手続きを、松江市役所に申請した。それは、セツが満22歳になろうとしていた明治23年(1890)の1月(13日)のことで、市役所は前の年の4月に市制が施行されて、できたばかりのものである。

セツは離婚後に生家の小泉家に復籍したが…

セツの小泉家への復帰は、あくまで法律上でだけのことであり、当時の小泉家は名家の名跡みょうせきを断つ状況にあった。というのは、セツの末弟の千代之助が、美保関みほのせきの北浦に近い片江村かたえむらの岩見家に養嗣子となって出ており、セツの次兄・長兄・父と連続して失った後の小泉家には、弟の藤三郎と姉のスエが残るだけとなったが、この2人ともセツが絶交せずにはおられない存在だったからである。

長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)
長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)

実生活は惨憺たる有様であり、当時のセツは、養父母と養祖父の扶養のほかに、実母の命を繋ぐという荷をも背負う身となっていた。

(セツと八雲の長男である)一雄は、『朝日新聞』(1950年4月25日)に掲載された「父ラフカディオ・ハーンを語る」という一文の中で「セツも養家を去って実家に帰り、また機織はたおりで細々暮した」と書いているが、必ずしも根拠があっての説明でないことは、同じ年の6月に出版された『父小泉八雲』の中では、為二との離婚届について述べた後、「右届出受理と同時にセツは稲垣家を去り、小泉家に復帰した事になっている」(太字筆者)という表現を、用いていることでも分かる。

一方、『山陰新聞』は、セツとハーンが北堀町に転居した明治24年(1891)6月下旬の時点で、セツを「稲垣某の養女」と記しているし、その年の11月に2人が熊本に移転した時には、稲垣家の養父母たちを同居させている。

また、『山陰新聞』は続けて、セツの実家である「小泉方は追々打つぶれて母親は乞食とまでに至りし」ことや、セツが「至つて孝心にて養父方は勿論もちろん実母へも己れの欲(原文ママ)をそいで与ふる」ことを書いているのである。ハーンに出会う前のセツは、実生活上、小泉家復籍の前と変わらず養父母たちと暮らしていたのであった。