NHK朝ドラ「ばけばけ」では、北川景子が主人公の親戚・雨清水タエという人物を演じている。歴史評論家の香原斗志さんは「モデルは小泉セツの母・チエだ。彼女は、松江藩の上級家老の一人娘で、『御家中一の器量よし』との記録が残っている」という――。
映画『キネマの神様』の完成披露試写会に登壇した北川景子さん(東京都千代田区の丸の内ピカデリー)
写真=時事通信フォト
映画『キネマの神様』の完成披露試写会に登壇した北川景子さん(東京都千代田区の丸の内ピカデリー)

北川景子演じるタエが厳しい態度のワケ

NHK連続テレビ小説「ばけばけ」の第1週「ブシムスメ、ウラメシ。」で、とくに印象に残った場面のひとつは、(2)でヒロインの松野トキ(子役は福地美晴)が雨清水家を訪ねた場面ではなかっただろうか。

ナレーションの蛇と蛙が、「おトキちゃん、遠縁の雨清水家のお屋敷にお稽古にきています。雨清水家は、それはそれは上級の武士だったから、おトキちゃんの松野家とは格が全然違うんですって」と説明すると、「ごきげんよう」といって、座敷に雨清水タエ(北川景子)が現れた。

トキが唐突に「本日でお稽古ごとを終わりにしたく存じます」というので、タエが「おトキ、わけを」を訪ねると、トキは語り出した。

「私、大人になりましたら小学校の先生になりたく存じます。そして一家の暮らしを支えたく、先生には茶の湯も要りませんし、三味線もお花も要りません」

しかし、タエは「お待ちなさい」といってトキに近づくと、語りかけた。「あなたはだれですか?」「松野トキは、なんなのでしょう」「武士の娘は、金を稼いだりいたしません。たしなみを身につけ、いずれ武士の夫や一家を支える。それが武士の娘。つまり、先生になどなりませぬ。もちろん、ほかのあらゆる商いも」。

この女性がこれほど凛として、武士であることにこだわる背景には、いったいなにがあるのだろうか。

雨清水タエのモデルはセツの母・小泉チエ

タエが「さっ、お稽古をはじめましょう」といったところに、夫の雨清水傳(堤真一)が入ってきて、その姿を見たタエの顔が凍りついた。髷が切り落とされ、散切り頭になっていたからだ。戸惑うタエの前で傳は、「近いうちにわしはここで、織物の工場をはじめようと考えておる」というので、タエはさらに戸惑いを深くした。

この雨清水タエのモデルは小泉チエといって、禄高500石の番頭(警護職のとりまとめ役)であった小泉湊の妻だった。このタエが、ドラマ内ですでに明治の世のに武士であることにこだわる理由については後述するが、「ばけばけ」でトキが「おじさん」「おばさん」と呼ぶ雨清水夫妻こそが、トキの実父母なのである。

松江城
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※写真はイメージです

役名とモデルの名が混ざるとややこしいので、ここからは原則として、モデルになった人物の名で記したい。小泉チエ、すなわち実母について、トキのモデルになった小泉セツは『幼少の頃の思い出』に、以下のように書き遺している。

「小泉の実母は藩中で有名な美しいお嬢様で音楽の天才で草双紙の精通者であった。稲垣家で小泉家を尊敬すること非常なもので、また稲垣家で私を大切にする事も格別であった」

「御家中一の器量よし」

チエはほかの記録からも、「御家中一の器量よし」といわれていたとされる。残されているチエの肖像写真は、すでに年齢を重ねてからのものだが、顔立ちがよく整い、若いころは大変な美人であったことが伝わる。実際、少し北川景子を彷彿とさせる。ちなみに、「稲垣家」とは「ばけばけ」における松野家のモデルである。

稲垣家は禄高100石ほどの中下級の藩士の家だった。だから、「ばけばけ」におけるトキの養父母、松野司之介(岡部たかし)とフミ(池脇千鶴)のモデルである稲垣金十郎とトミ夫妻は、禄高500石の小泉湊とチエ夫妻とは格が違った。

それなのに、どういうわけかセツの実父母は、遠縁にあたる稲垣家とのあいだで、「今度子どもが生まれたら養子にあたえる」という約束を交わしていたという。このため、「私は生まれて八日目に稲垣家にもらわれて行った」(セツの『幼少の頃の思い出』より)。

ただし、戊辰戦争勃発から間もない慶応4年(1868)2月4日に誕生したセツは、中下級藩士出身の稲垣家にとっては元来、かなり格上の家の娘に違いなかった。だから、養父母たちはセツのことを、「お嬢」を意味する「オジョ」と呼び続けたのである。

なぜ夫よりも妻の方がえらそうなのか

ところで、上級武士の小泉家のなかにも格の違いが存在した。「ばけばけ」でも、男尊女卑が染みついていた明治初期にしては、雨清水タエの態度が夫の傳に対してかなり尊大に描かれている。というのも、タエのモデルであるチエの実家は、小泉家より格がずっと上だったのだ。

チエは松江藩18万6000石の家老職、1400石取りの塩見増右衛門の一人娘だった。だから、夫の小泉湊とくらべて気位が高かったとしても不思議ではない。また、トキのモデルであるセツは、家老の孫娘だったことになる。セツは自身で書いた『オヂイ様の話』に、次のように書いている。

「私の子供の時にお友達ちの家へ行くとそこの老人からよく御祖父様の話を聞かされました。あなたのお祖父様は忠義なえらい方で御座いました。私はそう聞くと自らがほめられた様にほこりを感じてなんとなく愉快でした。母方の御祖父さん塩見増右エ門様は役のついてゐる家老で禄高は千何百石召使は三十人近く、屋敷は殿町二の丸のお堀の前でした」

小泉セツゆかりの松江城塩見縄手。小泉八雲旧居も並ぶ。
小泉セツゆかりの松江城塩見縄手。小泉八雲旧居も並ぶ。(写真=663highland/CC-BY-2.5/Wikimedia Commons

しかも「忠義でえらい方」というのは、同時代の忠義のなかでも、並大抵のものではなかった。

腹を切って藩主の放蕩をいさめた

塩見増右衛門が仕えていた9代目藩主の松平出羽守斉貴は、開明君主とも評されるものの、その実、わがままで贅沢や放蕩のかぎりを尽くし、酒と女と乱暴について数々の逸話が残るほどだったという。「忠義」の増右衛門は、家老職としてこれを到底見逃すことができなかった。

参勤交代中で江戸にいた増右衛門は、松江藩の上屋敷で藩主に向き合い、その軽率な行動を諌めたそうだ。しかし、まったく聞き入れられない。そこで、再度諌めたのだが、松平出羽守の態度はなにも変わらない。そこで3度目の諫言をするにあたり、増右衛門は覚悟の行動に出た。陰腹を切ったのだという。

「陰腹を切る」とは、歌舞伎などではときどき描写され、あらかじめ舞台裏で切腹した人物が、苦痛を隠して舞台に登場し、あとで切腹していたことを知らせるものだ。観客に衝撃をあたえるのがねらいだが、増右衛門は出羽守に衝撃をあたえるために、身をもってそれを実践したというのである。

すなわち、松平出羽守の御前で忠告した増右衛門が、いつもと違ってただならぬ様子だったので、家臣が家老詰所まで様子を見に行った。すると、閉じられた襖の向こうで増右衛門は、すでに息絶えていたというのだ。「陰腹」を切り、その傷に白い木綿を固く巻きつけた状態で出羽守の御前に出向き、文字どおり最後の力を振り絞って出羽守を諌める。そんな忠義の死を遂げたというのである。

松平斉斎(斉貴)の肖像
松平斉斎(斉貴)の肖像(写真=『松江藩の治世と文化 藩政改革と幕末の動乱』松江郷土館 月照寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

誇らしい祖父、誇らしい父

その後、松江の塩見家の屋敷には、江戸から「増右エ門様俄に病死」という早打ちが届けられた。その屋敷は、松江藩の政庁と藩主の居宅を兼ねた松江城の三の丸御殿とは、堀をはさんで向かい側にあった。

松平出羽守もここまでされたとあっては、かなりの衝撃を受けたということだろう。そののち藩主の座を退き、頭を剃って謹慎したという。

現代人の感覚からすると、少々おぞましい話のように聞こえるかもしれないが、セツは祖父のこのエピソードをたびたび聞かされ、祖父のことを誇らしく思っていたという。娘のチエがそれを大いなる誇りに感じ、父の行動が象徴する武士の精神を守り続けたいと考えたとしても、少しも不思議ではない。

「ばけばけ」で描かれた雨清水タエの、あの凛とした姿には、忠義の祖父、塩見増右衛門の魂が反映しているはずである。