時代で変わる「不謹慎」

その対比として描かれるのは、やはりマンハッタン計画に参加して「水爆の父」と形容されたエドワード・テラーだ。テラーは悩まない。冷戦期には、原爆よりもはるかに破壊力が大きい水爆の開発・実験を主張し、オッペンハイマーと激しく対立した。この二人の対立に加えて、オッペンハイマーを妬み謀略によって陥れようとするルイス・ストローズ(原子力委員会議長)の視点も、本作では重要な補助線として描かれる。

少し話は逸れるが、こうした描きかたにもハリウッドの凄みを僕は感じる。テラーもストローズももう故人だが、子供たちも含めて遺族はたくさんいる。ならば邦画では、こうした批判的な描写ができるだろうか。かなりハードルが高い。

ロンドンのクランボーンストリートの映画館にて。上映中だった『オッペンハイマー』のポスターが出ている
写真=iStock.com/OGULCAN AKSOY
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そしてハードルが高いと感じてしまう要因のひとつが、この映画が日本では封印されかけたプロセスと重複する。

それを言葉にすれば、僕もこの寄稿であえて使った「不謹慎」だ。ちなみにこの言葉は、他の言語ではなかなか翻訳できない。日本独自の概念と言えるかもしれない。

さらに、(話題を集めたTBSドラマ「不適切にもほどがある!」を引き合いに出すわけではないが)不謹慎や不適切が時代によって変わることについても、もう少し自覚的であるべきだと思う。

言論の萎縮に憂慮する

昭和の時代にプロレスラーの大木金太郎の必殺技であるヘッドバットは「原爆頭突き」と命名されていて、入場時に羽織るガウンには大きなキノコ雲がプリントされていた。プロレスの神様と称されたカール・ゴッチが、必殺技であるジャーマン・スープレックス・ホールドを決めた瞬間に、当時のアナウンサーは「原爆固めです!」と絶叫していたことも覚えている。当時は今よりもはるかに被爆の当事者や遺族は多かったはずだけど、こうした命名やガウンに対して「不謹慎だ」との声が上がったとの記憶はない。

だからといって、ジェンダー問題やハラスメントに対して鋭敏になった現在の風潮を否定したり相対化するつもりなどない。キノコ雲が描かれた大木金太郎のガウンを見ながら、思わず目をそむけてしまった人はいたかもしれない。アナウンサーが絶叫する「原爆固めが決まりました!」を耳にしながら、もうやめてくれと思った人もいたかもしれない。不可視にされていただけなのだ。

あの時代の「当たり前」が、社会的弱者や少数者に対する想像力が機能しないままに、多くの人の悲しみや痛みを視野から外していた「大きな間違い」だったことは確かだ。

それは大前提にしながらも、『オッペンハイマー』を一時は封印しかけたこの国の表現や言論の萎縮について、僕は深く憂慮する。