8代将軍吉宗はあえて不美人を側室にし、田安宗武が生まれた

定信の父・田安徳川宗武は、8代将軍・徳川吉宗の次男として生まれた。

長男の徳川家重が3歳の時、母親が難産の末に死去してしまう。そこで、吉宗に新しい側室を迎えることになる。

「家来が吉宗に希望を聞くと、亡くなった長福丸ながとみまる(家重)の母親に縁のある女性にしたいという。見つかるには見つかったが、『徳川実記』に『その形よからず。枕席ちんせきに侍すべきさまにもあらず』とあるような醜女しこめだった。
しかし吉宗は家来に向かって、『女はやきもちさえ焼かなければそれでいいのだ。顔などどうでもいいのだ』といって、彼女を側室にしてしまうのである。これが、後に吉宗の再来といわれ、御三卿ごさんきょうの一つを興すことになる田安宗武の母親である」
(大石慎三郎『将軍と側用人の政治』)。

家重は言語不明瞭で、将軍としての資質を疑われる側面があった。一方の宗武は和歌に通じ、非常に英邁だったので、老中・松平乗邑のりさとなどの幕閣が宗武の将軍就任を支持。吉宗も逡巡したらしいが、結局、「長幼の序」を守るべきと判断して家重を後継者とし、乗邑を罷免した。

宗武は江戸城田安門の近くに邸宅を与えられ、御三卿の一角を成した。家禄は10万石だが、特定の地域をまとめて与えられたわけではなく(たとえば、田安家の場合は武蔵・下総・甲斐・摂津など6カ国合計で10万石)、家臣は旗本の出向組だった。なんだか中途半端で、いつでも事業撤退(廃止)できるプロジェクトに見える。

田安家から養子に出されたことを深く恨んでいた松平定信

宗武の嫡男・徳川治察はるあきは病弱で子もなかったので、田安家としては後継者のスペアとして、英邁な七男の定信を取っておきたかった。ところが、幕府は定信を白河藩松平家の養子に出すように命じる。半年後に治察が死去すると、宗武の未亡人は定信を田安家に戻して家名を存続するよう嘆願したが拒否されてしまう。

幕府の役人いわく、吉宗の遺命によれば、
「御三家の領知は部屋住み料として与え、無嗣であれば収公(家禄を没収)するとあるため、願いは却下する」(高澤憲治『人物叢書 松平定信』)。

やっぱり、吉宗は御三卿をいつでも事業撤退できるプロジェクトと考えていたのだ。だから、御三卿の男児はポンポンと他家の養子に出されてしまったわけだ。ところが、定信は自身が養子に出されたのは、田沼意次の謀略だと信じ込んでいて、「田沼憎し」の怨念で凝り固まっていたらしい。二度ほど、田沼を殿中で刺し殺そうと考えていたと吐露している。

「松平定信自画像」鎮国守国神社(三重県桑名市)、天明7年6月
「松平定信自画像」鎮国守国神社(三重県桑名市)、天明7年6月(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons