「私たち」ではなく「私」しか考えていない

こんなふうに考えてみると、はっきりわかることがあります。それは、この男性が「私たちにとっての居心地のよい場所を作る気がない」ことです。頭ではどう考えているかわかりません。言葉を選んでいるように見えるので、意地悪なことを言いたいわけでもないでしょう。ただ、この人が言っていることは結果的に以下のことを示しています。

まず、この世界をゼロサムゲームだと思っています。ゼロサムゲームとは、どちらかが得をするともう一方が同じだけ損するゲームで、勝負が終わった後に合計が増えないゲームのことです。要するに奪い合いのゲームで、より多く持てるほうがよりよいのですが、そのためには相手に損をさせることになります。そしてそれは仕方ないものだと思っています。

続いて重要な問題は、相手の利益を考えていないことです。もっと正確に言うと「私たち」全体としての利益を考えていません。「私たちの世界」を大切にし、慈しもうと思ったら、相手が何を大切にし、何を大事にしているのかを知ろうとする必要があります。そのために尊重の言語化があります。しかし、「私たち」という単位で物事を考えない人は尊重の言語化をしません。

こういう言い方をしたらもっとわかりやすいかもしれません。「写真撮影をすることによって100から60に喜びが減ってしまう」ときに、「パートナーの喜びは50から110になっているかもしれない」ことです。

合計すると150だったところから、170になっています。つまり、人生はプラスサムゲームであり得るのだと僕は思います。正確に言うと、それを信じ、目指すことこそが、人と生きるための言語化の正体だと言えます。

こう考えてみると、100から60になるのは「損」ではなくむしろ「得」になります。「損失」ではなく「投資」ということもできるかもしれません。個人で見たら減って見えても、一緒に生きたいと思う人と一緒に考えたら、喜びは増しているからです。

いつもプラスサムとは限らない

少しビジネスっぽい言い方で違和感を覚える人もいるかもしれませんが、基本的な考え方自体はここまで話してきたことと変わりません。プラスサムの関係にならないなら、その関係は終わってよいのです。

ちなみに「自分にとってどうでもいいことを相手に譲ること」は必ずしもプラスではありません。相手にとってもどうでもいいことだった場合には、むしろ「決めるコストを相手に負担させた」状況になることもたくさんあります。普段はなんとも思っていないのに、こういうときに「自分はこういう損をしてあなたに得をさせた」ことを持ち出してバランスを取ろうとする人もいますが、それはずるいと思います。