「私はあなたと子どものツーショットを撮っているけれど、あなたにも時々でいいから撮影してほしい」。妻にそう言われ、いやいやながらおざなりの写真しか撮っていなかった夫に、妻は「もう別れたい」と思わず口にしてしまった……。モラハラ・DV加害者変容に取り組む当事者団体「GADHA」の代表を務める中川瑛さんは「これは単なる写真撮影の頻度だけの話ではない。実はこのケースの夫は、『自分の損得しか考えていない』ために、パートナーは真剣に別れを考えてしまったのだろう」という――。(第2回/全3回)

※本稿は、中川瑛『孤独になることば、人と生きることば』(扶桑社)の一部を再編集したものです。

カメラを持つ女性のイメージ
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自分のことしか考えられない人

夫婦、パートナーシップにおいて「自分のことしか考えられない人」の事例を見てみましょう。

ある男性が、パートナーに「子どもとの思い出をたくさん残しておきたいから写真をたくさん残したいの。遊ぶだけじゃなくて、記録を残せないかな? 私はあなたと子どものツーショットを結構撮ってるんだけど、あなたにも時々でいいから撮影してほしいんだよね」と言われました。

男性は「はいはい、わかったよ」と生返事をしながら結局相手に言われるときだけいやいや撮影し、撮影する意欲も低いので、綺麗に撮影することも特になく、適当に撮ったことがわかる写真ばかり残していました。

表情がちゃんと写っていないとか、半目の写真ばっかりだとか、髪型がぐしゃぐしゃなときに限って撮っているとか、食べているものが写っていないとか、記念日のプレートが写真に入っていないなど、パートナーにとってはせっかくの思い出を振り返ることができず、悲しい思いをしていました。

痺れを切らしたパートナー

一方で、パートナーはこの男性と子どもの写真をいろいろ撮影していました。テーマパークで楽しそうに一緒にアイスを食べている写真や、二人で手を繋いで歩いている後ろ姿、髪型が風で乱れていたらさっと直して、後から振り返ったときに「これはいい写真だね」と男性も喜ぶ写真です。このような状況が続いているうちに、とうとうパートナーが痺れを切らし始めました。

「子どもが小さくて可愛いうちに、たくさん振り返れる思い出が欲しいって言ってるよね。あなたもそれを楽しんでる。それなのに、あなたは私が頼むときにしか写真を撮影してくれないし、それもいやいややってるだけ。何度もお願いして、そのたびにその時だけ反省したふりをして、結局自分から写真を撮ることってほとんどないよね。私はそれがすごく悲しい」と言います。

男性は観念してようやく言語化をしました。

深いため息をつき「もう別れたい」

「自分は別のことを同時にやるのが苦手だから、もしも撮影に集中することになったら、一緒に話したり楽しんだりすることが全然できなくなっちゃう。100あった楽しみが60くらいになってしまう。目の前の子どもに向き合いたいから、そういうことはしたくない。君は器用だからできるんだろうけど、自分はそういうことはできない」と答えました。

この言葉が引き金となり、パートナーとの関係はぎくしゃくしていきます。三人で遊んでいるときも写真を撮ることは滅多になくなってしまいました。

これまでは子どもがぐずってしまったときにはすぐに面倒を見てくれていたパートナーは「それも親の仕事のうち。楽しいときだけ子どもと関わるのをやめてほしい」と言うようになり、男性はイライラして「だって普段から見てるのはお前なんだから、泣きやませるのも母親のほうがいいに決まってるだろ。なんでそんなこと言うんだよ、子どもがかわいそうだろ」と言いました。

パートナーは深く深くため息をつくと「もう別れたい」と思わず口にしてしまいました。一体ここでは何が起きているのでしょうか。

相手が払っているコストに無自覚

ここで男性が行っている言動は「撮影をしない、あるいはいやいやしかやらない」になります。言われた後少しはやるけれども、明らかにやる気もないし、それは相手にも伝わっています。

どんなときにこの言動が起きているのでしょうか。このパターンを見てみると、日常や外出のときに、自分が楽しんでいるときだと思われます。「100あった楽しみが60くらいになってしまう」と言っていることからも、自分の楽しい時間が減ってしまう場面にその現象が起きています。

この背景にある構造はなんでしょうか。実はここには「そもそも、100楽しめるようにしているのは誰か」についての認識の欠落があるように思います。「ぐずりだしたら子どもを母親に渡せばよい」からこそ、「100楽しめている」のではないでしょうか。

100楽しめるようにするために、パートナーは何をしているのでしょうか。それは、パートナーの100をどのくらい減らすものなのでしょうか。そういったことの認識が完全に抜け落ちています。

そして、さらに奥にあるもの、その構造を支えるメンタルモデルはどのようなものでしょうか。

それは「自分の損得しか考えない」です。自分にとってどうか、という視点しかないとき、自分にとって嬉しいことが起きたとき、それが何によって支えられているか気づきません。そして自分にとって嫌なことが起きて、誰かに解決を任せて嫌なことを回避できたとき、相手がどんなコストを支払っているのかに無自覚です。

手で顔を覆う女性のイメージ
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「私たち」ではなく「私」しか考えていない

こんなふうに考えてみると、はっきりわかることがあります。それは、この男性が「私たちにとっての居心地のよい場所を作る気がない」ことです。頭ではどう考えているかわかりません。言葉を選んでいるように見えるので、意地悪なことを言いたいわけでもないでしょう。ただ、この人が言っていることは結果的に以下のことを示しています。

まず、この世界をゼロサムゲームだと思っています。ゼロサムゲームとは、どちらかが得をするともう一方が同じだけ損するゲームで、勝負が終わった後に合計が増えないゲームのことです。要するに奪い合いのゲームで、より多く持てるほうがよりよいのですが、そのためには相手に損をさせることになります。そしてそれは仕方ないものだと思っています。

続いて重要な問題は、相手の利益を考えていないことです。もっと正確に言うと「私たち」全体としての利益を考えていません。「私たちの世界」を大切にし、慈しもうと思ったら、相手が何を大切にし、何を大事にしているのかを知ろうとする必要があります。そのために尊重の言語化があります。しかし、「私たち」という単位で物事を考えない人は尊重の言語化をしません。

こういう言い方をしたらもっとわかりやすいかもしれません。「写真撮影をすることによって100から60に喜びが減ってしまう」ときに、「パートナーの喜びは50から110になっているかもしれない」ことです。

合計すると150だったところから、170になっています。つまり、人生はプラスサムゲームであり得るのだと僕は思います。正確に言うと、それを信じ、目指すことこそが、人と生きるための言語化の正体だと言えます。

こう考えてみると、100から60になるのは「損」ではなくむしろ「得」になります。「損失」ではなく「投資」ということもできるかもしれません。個人で見たら減って見えても、一緒に生きたいと思う人と一緒に考えたら、喜びは増しているからです。

いつもプラスサムとは限らない

少しビジネスっぽい言い方で違和感を覚える人もいるかもしれませんが、基本的な考え方自体はここまで話してきたことと変わりません。プラスサムの関係にならないなら、その関係は終わってよいのです。

ちなみに「自分にとってどうでもいいことを相手に譲ること」は必ずしもプラスではありません。相手にとってもどうでもいいことだった場合には、むしろ「決めるコストを相手に負担させた」状況になることもたくさんあります。普段はなんとも思っていないのに、こういうときに「自分はこういう損をしてあなたに得をさせた」ことを持ち出してバランスを取ろうとする人もいますが、それはずるいと思います。

お互いにとって大事なことを相手に譲る

むしろお互いにとって大事なことなのだけれども、相手のために譲るとき、そこに感謝が生まれます。この人は自分のことを優先してくれた。だから、今度は自分もできるだけ相手に譲ろう、そう思い合える関係は、優しさを、感謝を、交換し合えます。いつもプラスサムとは限らないからこそ、時間をずらした交換によるプラスサムが可能になるのです。

今回の男性は、そもそも相手が我慢した上で、男性に100を楽しめる環境を作っていることに無自覚です。本当はパートナーだって機嫌のよいときの子どもと遊んでいるほうがずっと楽しいでしょう。パートナーはこんなふうに思っていたかもしれません。

「夫は平日は忙しくて子どもと遊ぶ時間も短いから、せめて週末に子どもといられるときの思い出をよいものにしてあげたい。後から振り返れるように写真も撮って、ぐずったときには私が面倒を見ればよい」と。ここには、一緒に生きたいと願う2人が両方勘定に入っています。それによって自分が損をする部分を、そもそも損だと捉えていません。

しかし、男性から「100から60になっちゃう」とか「子どもと向き合いたい」という言葉を聞いて愕然とするのです。「じゃあ、私の数字はどのくらいだと思っているんだろう。その40を使うと私がどのくらい嬉しくなるのかを考えたことはあるんだろうか」「楽しくて元気なときの子どもと遊んでればよいことを、向き合うって思っているんだ、そうなんだ……」「私だけが、私たちのことを考えているのだ」と。

それがいかに人と生きるための言語化とは真逆のものであるかを思い知ったとき、パートナーは別れを真剣に考えてしまったのでしょう。怒鳴ることもなく、キツイ言い方をするわけではなくとも、ケアに欠けた、孤独になる言語化は間違いなく存在します。

単なる写真撮影の問題を超えている

自分のことしか考えていないうちは、自分のことしか計算に入れることができません。「ごめん、これまで自分のことばっかり考えてきた。適当な写真ばっかり撮ってきて申し訳ない」と伝えるだけでは足りないでしょう。これは単に写真撮影をするしない、という問題を実は完全に超えているからです。

「普段、どんなときに自分ばっかり頑張ってると感じるか教えてほしい」とパートナーに聞いてみたらどんな言葉が出てくるでしょうか。

「寝かしつけも夜泣き対応もいつも私がやっているのに、お昼寝をするときにあなたに任せたら子どもより先に寝ていたとき」や「子どもが食べたいものはあなたが買ってあげるけど、こぼしたり、汚したりしたときは私が対応するし、あなたは鼻水とかも放っておいたりするとき」とか「誕生日のケーキのライターは私に持ってこさせるくせに、火をつけるのはあなたで、その様子を動画で撮っているのは私のとき」かもしれません。

「これまで」という時間軸、「今この瞬間」という時間軸

一つの問題を見つけたら、同じメンタルモデルや構造を背景として、似た問題が他にも量産されている可能性を想像することが必要になります。今回のように、要するに「自分ばっかりいいとこ取りしてる」ことがたくさんあり得るのです。

こうして考えてみると「今までちゃんと写真を撮ってなくてごめん」と言うのは、謝罪としても、これからの対策を考える上でも、あまりにも近視眼的かつ本質を突いていないことが見えてくるように思います。

そんなときに、いつも例に出す話があります。それは「時間軸を長く取る」ことです。家を作ること、綻んだら繕っていくこと、これは一夜にして仕上がるものでは決してありません。長い年月をかけて、少しずつ居心地のよい場所にしていく必要があります。

しかし、これまで自分のことばかり考えて、自分の居心地をよくすることにしか関心を持っていなかった人と、これまで二人のことを考えて、二人にとってよい場所にしようとしてきた人とでは、あまりにも大きな「受け取ってきたことの差」があるのです。しかし、時間軸をスクリーンショットのように「今、ここ」に持ってしまうと、まるで「自分のほうが損をしている」「自分ばっかり頑張っている」ように感じてしまうのです。

空間と時間の認識のズレ

これは恐ろしいことです。自分がどれだけ受け取ってきたかをなかったことにして、今から、これからだけを考えて、勝手に絶望しているからです。むしろ、その絶望をパートナーに伝えてしまったら、パートナーの絶望は二重にも三重にも深まり、取り返しがつかないダメージを与える可能性さえあります。

なぜなら空間・時間ともに認識に大きなズレがあるからです。空間という意味では、「自分だけ」という見方から空間を広げて「私たち」として考えることをしていないズレがあります。

孤独になる言語化

現象=パートナーと子供の写真を撮らない

パターン=自分が子供と楽しんでいるとき
構造=自分のことしか勘定に入れていない
メンタルモデル=損したくない。楽しさは奪い合い

人と生きる言語化

現象=相手にも嬉しい思い出を残せる

パターン=相手にとって大事そうな場面において
構造=相手の楽しさを知ろうとする
メンタルモデル=楽しさを分け合うと倍になる

空間と時間のズレがパートナーを傷つける

そして、時間という意味では「今だけ」というところから時間を広げて「これまでとこれから」として考えていないことのズレがあるからです。この2つのズレを思い知らされることは、パートナーにとっては本当に傷つくことでしょう。

多くの場合「今回はどっちかが損することになっちゃうけど、次はどっちも嬉しい選択をしたいよね」とか「前回はそっちに我慢してもらったから、次はそっちが嬉しいことを優先しようね」と、時間的なズレが生じることのほうが普通です。

それなのに「今だけ」しか見ることのできない人は、時間的なズレが生じたときには「自分が今まで受け取ってきたもの」や「相手が我慢してくれていたもの」を帳消しにしてしまうのです。

家のたとえに戻るなら、机の上を掃除しただけで家事をした気になっているのです。その机を作ったのは誰か、掃除道具を用意したのは誰か、そういったことがすっぽ抜けてしまうのです。

「相手が喜ぶことをもう一度考えよう」と思うこと

尊重の言語化を経て、相手の希望に応えている中で疲れることもありますが、それで本当に居心地が悪くなったら関係を終了してもよいのです。

中川瑛『孤独になることば、人と生きることば』(扶桑社) 

しかし、最近自分ばっかり損しているかもと思いそうなとき、そもそもこれまで自分にとって居心地のよい空間だったのは誰のおかげなのか、あのまま自分にとってだけ居心地のよい空間だったなら、いつかパートナーは家を出ていっていたかもしれない。もしそうなっていたら「損」どころの騒ぎではなかったのではないか、と考えることもできるのではないでしょうか。

そうして相手がどんなことを大切にしているのか理解していくうちに、ここだ! と気づいてパートナーとお子さんが幸せそうに眠っている様子を無音カメラで撮影するかもしれません。おしゃれしてママ友とお遊んできた帰りに、服もメイクもぱりっとしているときにお子さんとの笑顔の写真を撮影することかもしれません。子どもがぐずったときにお散歩に行こう! と気を逸らしつつパートナーにゆっくりした時間を持ってもらえることかもしれません。寝起きで日焼け止めを塗るのが面倒なパートナーの代わりに、朝のゴミ捨てをするようになることかもしれません。

しかしそれらも間違っているかもしれません。「こうしたら喜んでもらえるかな」と思ってやったことが、相手に喜ばれないかもしれません。そんなときにいかに「どうせ自分なんてダメだ」「こんなに頑張ってるのに酷い」などと自己憐憫に浸ることなく、相手が喜ぶことをもう一度考えようと思うことに、愛することの本質があります。

そうするとまた、パートナーも男性を「私たちの世界を作ろうとしてくれている」と信頼できるようになり、またパートナーからも共生の言語化をしてもらえることが増えていくことでしょう。