京都市中で処刑された三成が最期の瞬間に望んだこと

三成は、京都市中を引き廻しの上、処刑されることになります。六条河原の処刑場に行く途中、三成は喉が渇いたとみえて、湯を所望します(江戸中期成立の逸話見聞集『明良洪範』)。ところが、警固の者は湯を求めることはできず。よって「ただいま、湯は求めることはできない。喉が渇いたならば、ここに干し柿があるので、これを喰われよ」と三成に伝えます。三成はそれを聞いて「それは、たんの毒じゃ。食べない」と拒否。三成の回答を聞いた人々は「今から首をねられる者が、毒をむとはおかしなこと」と笑ったそうです。

すると三成は「汝らのような者はそうであろう。しかし、大義を思う者は、たとえ、首を刎ねられるときまでも、命を大切にして、本意を達せんと思うものじゃ」と言い返したといいます。この逸話が本当にあったことか否かは分かりませんが(創作の可能性が高いでしょう)、誇り高い、三成の思考が垣間見えます。

家康が三成の子どもたちを生かし、三成の血筋は続いた

江戸時代中期の説話集『常山紀談』には、関ヶ原合戦後に、家康と三成が対面したと書かれています。家康は「どのような武将も、このようになること(筆者註=戦に敗れて、引き据えられること)はある。恥ではない」と三成に慰めともとれる言葉をかけたといいます。すると三成は「ただ、天運のしからしめるところ。早々に首を刎ねられよ」と返答。気丈な三成の態度を見た家康は「三成はさすがに大将の器量じゃ。平宗盛とは大きく異なる」と感心したとのこと。

孟齋芳虎画「三河英勇傳」より『従一位右大臣 征夷大将軍源家康公』、明治6年
孟齋芳虎画「三河英勇傳」より『従一位右大臣 征夷大将軍源家康公』、明治6年〔写真=PD-Art(PD-Japan)/Wikimedia Commons

平宗盛は、平安時代末の武将であり、平清盛亡き後、平家の総帥となった人物。壇ノ浦の合戦(1185年)後、捕縛され、勝者である鎌倉の源頼朝の前に引き据えられます。その際、宗盛は卑屈な態度で助命を願ったと言われますので、家康はその故事を知っており、宗盛と三成を比較したのでしょう。これらの逸話が本当にあったことか否かは分かりませんが(創作の可能性が高いでしょう)、ここでも誇り高く潔い、三成の性質・思考が垣間見えます。

三成には嫡男・重家がいましたが、関ヶ原合戦後に京都妙心寺で出家。まだ年少であり、出家したこともあり、死罪となることはありませんでした。三成の次男・重成も、戦後、大坂城を逃れ、のち、津軽氏の家臣となっています。三成の三男も出家し、命を永らえています。こうした所を見ても、家康は三成に敵意ばかりを募らせていたわけではないように思うのです。

※主要参考文献
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2017)
・藤井譲治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)
・濱田浩一郎『家康クライシス』(ワニブックス、2022)

濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。