豊臣秀吉に重用された石田三成は、関ヶ原の戦いで徳川家康と全面対決し敗れた。作家、歴史研究家の濱田浩一郎さんは「家康と三成は最初から宿敵・仇敵だったように思われているが、秀吉死後に起こった豊臣七将による三成襲撃事件を詳しく見ていくと、家康の三成へのリスペクトが感じられる」という――。
JR長浜駅東口。観音寺での豊臣秀吉と石田三成の出逢いの「三献の茶」の逸話に基づいた像
写真=滋賀県提供
JR長浜駅東口。観音寺での豊臣秀吉と石田三成の出逢いの「三献の茶」の逸話に基づいた像

関ヶ原の戦いで西軍大将となり家康に敗れた石田三成

大河ドラマ「どうする家康」第35回「欲望の怪物」では、ドラマ後半の主要人物とも言える石田三成が登場してきました。三成を演じるのは、歌舞伎役者の中村七之助さん。石田三成というと、いわゆる「天下分け目」の関ヶ原の戦い(1600年)で、家康率いる東軍と戦い、敗れた武将として知られています。では、家康と三成の関係は、どのようなものだったのでしょうか。

本題に入る前に、三成の前半生について、軽く触れておきましょう。三成は、永禄3年(1560)、近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)の地侍・石田正継の子として生を受けます。ちなみに、家康は天文11年(1543)の生まれですので、三成の17歳年上です。

長浜城主であった羽柴(豊臣)秀吉に年少の頃から近侍するようになった三成。中国征伐や山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなどに従軍し、さらには吏僚(役人)として働くことにより、豊臣政権のなかで出世していきました。(1585年には、従五位下治部少輔に叙任)。三成は、堺奉行に任じられたり、博多奉行として博多の復興を指揮したり、いわゆる太閤検地の実施の中心人物になったりと、主に民政で活躍しています(朝鮮出兵に際しては、船奉行を勤めて部隊の輸送を担当)。

そうした仕事をこなしていくには、頭脳明晰で、テキパキと物事を推進していく人間でないといけないでしょう。三成は秀吉にそうした所を見込まれたのではないでしょうか。

三成は家康の17歳下、秀吉亡き後、豊臣家臣の反発を買った

家康と三成というと、関ヶ原合戦で刃を交えたことから、最初から宿敵・仇敵だったように一般には思われていますが、果たしてどうだったのでしょうか。秀吉死後に起こった豊臣七将による「三成襲撃事件」(1599年閏3月)から、そのことを探っていきましょう。

「豊臣七将」とは、加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明のこと。この七将が、大坂にいる三成を襲撃しようとしたのです(襲撃ではなく、三成の制裁を訴えようとしただけとの説もあり)。

その原因となったのが、朝鮮出兵の際、三成派の軍目付の報告により、諸将が秀吉から譴責けんせき処分を受けたことにあるとされます(朝鮮にある諸将が戦線縮小を画策していることを、三成の義弟で目付の福原長堯が糾弾。秀吉は怒り、黒田長政は蟄居ちっきょ、領地の一部没収。加藤清正は譴責)。