本能寺の変の直後、清玉上人が秀吉に遺骨を渡さなかったわけ

清玉上人が秀吉に信長の遺骨を渡さなかった理由とは、なんだったのでしょう。

阿弥陀寺で葬儀はもう済んでおり、「改めてする必要はない」と清玉上人は言ったそうですが、秀吉は仮にも信長の後継者です。

遺骨を譲り受けることをあきらめた秀吉は、「それなら、寺に永代供養料として三百石を寄進する」と申し出ましたが、上人はこれもかたくなに拒否したといいます。

「信長公阿弥陀寺由緒之記録」には、その理由も記されていました。

秀吉公若年より莫大ばくだいに信長公の御恩を受けて身を立てたる人の、何ぞや信長公道ならず不慮に御生害あそばされたるを幸いに天下を我がものにして、たちまち御重恩を忘れ織田御家門をご家来となされ候事を、清玉上人はなはだ本意なく無念に存じられ、秀吉の事を常に人でなしの人非人とのみ申され候由

享保16年(1731)に書かれたこの記録は、第一級史料とはいいがたいのですが、寺伝として語り継がれたことをまとめたものです。

清玉上人が弟子に話していた内容としては、大筋信用できると思います。

──秀吉は、信長の御恩を受けて身を立てたのに、亡くなられたのを幸いに天下を我がものにしている。重い恩も忘れ、織田家を家来としてしまった。清玉上人は、なんとも無念であり、秀吉は「人でなし」だと語っていた。

つまり、清玉上人は「秀吉は恩知らず」だと言っていたというのです。まことに生々しい証言ではないでしょうか。

歌川国政(五代)作「大徳寺ノ焼香ニ秀吉諸将ヲ挫ク」
歌川国政(五代)作「大徳寺ノ焼香ニ秀吉諸将ヲ挫ク」[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]

秀吉は光秀のクーデターを知っていながら信長を見殺しに?

しかし、私はここで一つの疑念にとらわれました。

というのは、秀吉が織田家の天下を奪う姿勢をはっきりと見せるのは、天正11年(1583)に織田信孝と柴田勝家の連合軍に勝ってからのことです。本能寺の変から4カ月後には、まだそれほどあからさまな行動をとっていないのです。

しかし、清玉上人はまるでその後の秀吉の「恩知らず」を知っているかのようです。

考えられる理由は一つしかありません。

それは秀吉が「本能寺の変」が起こることを知っていながら信長を見殺しにした。そのことを清玉上人が知っていたということです。

清玉上人は正親町天皇の勅願僧であり、秀吉と朝廷との交渉は逐一承知していたはずです。その過程で秀吉が何をしたかをつぶさに知り、「人でなしの人非人」だと決めつけたのだと思います。