地下鉄のホームで号泣

「大丈夫でしょうか? この子」と聞く妻に医師は、「元気だし、エコーを見た限りではなんの問題もないですよ」と出産にGOサインを出した。ただ、高齢出産のうえ、子宮筋腫があるという事実は動かしようがない。

医師は、「出産年齢よりも、筋腫がちょっと心配だよね。あなたの場合はハイリスクなので、日本医大付属病院で出産まで診てもらいましょう」と紹介状を書いてくれた。

クリニックで妊娠がわかった帰り道、地下鉄のホームにいた妻の目からは、滝のような涙が出て止まらなかった。

「私が、生活が変わっちゃうんじゃないかとかクヨクヨ考えているあいだに、このお腹の子は、しっかり生きていた。そう考えると、こんなママでごめんなさいという気持ちになっちゃったの」

子宮頸ガンの疑いも子宮筋腫も同時に消えた

ここから先の、日本医大付属病院での妊娠経過観察から、東大病院での帝王切開手術による出産、妻が妊娠中に患わずらった心筋炎の危機は、書籍で綴ってきたとおりだが、驚くべきことに、出産によって妻の体の中の懸念が2つとも消えていたのだ!

中本裕己『56歳で初めて父に、45歳で初めて母になりました 生死をさまよった出産とシニア子育て奮闘記』(ワニ・プラス)
中本裕己『56歳で初めて父に、45歳で初めて母になりました 生死をさまよった出産とシニア子育て奮闘記』(ワニ・プラス)

子宮頸ガン疑いである「軽度異形成」については、出産前の検診で「消えていますよ」とあっさり告げられた。これは自然治癒する例もあるのだという。それも、お腹の子が助けてくれたのだろうか。

そして、心配の種だった大きな筋腫については、帝王切開手術のときに、筋腫から出血があったため、「取っておきました」と、こちらも産科の執刀医にあっさり報告を受けたそうだ。

妻の詳しい話を聞き終えた私は、しばらく呆然とした。

晩婚で、時にケンカもしながら2人で楽しく暮らしてきた。

老後のことを考えるより、次の休みにどこへ行って、なにを食べるかを大切に、今を生きてきた。子どもができるか、できないか、それは授かりものだと思っていた。そのときそのときの今が楽しく生きられればいい。

その考えに後悔はないが、これから先も、もっと自分の、妻の、体の声も聞きながら生きていけば、悪しき前兆を食い止めたり、楽しさが倍増したりするのかもしれない。

今をもっと大事にしよう。

我が家では、まさに神様から授かったとしか思えないタイミングで、妻が子を宿した。

しかし母体と子どもが命の危険にさらされた。その危険な状態が劇薬となって、妻の体から懸念材料を消し去ってくれた。人間の持つ力の底知れぬパワーを思い知らされる。

そのパワーはかけがえのない今を毎日、笑って過ごすことから生まれる。

妻よ、我が子よ、本当にありがとう。

生後4日、初めての母子対面。
生後4日、初めての母子対面。中本裕己『56歳で初めて父に、45歳で初めて母になりました 生死をさまよった出産とシニア子育て奮闘記』(ワニ・プラス)より
中本 裕己(なかもと・ひろみ)
産経新聞社 夕刊フジ編集長

1963年、東京生まれ。関西大学社会学部卒。日本レコード大賞審査委員。浅草芸能大賞専門審査委員。産経新聞社に入社以来、「夕刊フジ」一筋で、関西総局、芸能デスク、編集局次長などを経て現職。広く薄く、さまざまな分野の取材・編集を担当。芸能担当が長く、連載担当を通じて、芸能リポーターの梨元勝さん、武藤まき子さん、音楽プロデューサー・酒井政利さんらの薫陶を受ける。健康・医療を特集した新聞、健康新聞「健活手帖」の編集長も兼ねる。48歳で再婚し、56歳で初めて父親になる。