昭和天皇も上皇様も「洋行=帝王教育」を経験

1950年10月からは『昭和天皇拝謁記2』に移る。皇太子成年が近づき、新憲法下で初の立太子礼、成年式が話題の中心になる。1951年5月に貞明皇后が急逝し、儀式は延期され、進学については10月22日にこう記される。

<実は東宮様高等科来年御卒業に付、其後参与等と相談の結果、学習院大学部へ御進学願ふ事に決定、御許しを願ふ為、小泉及野村大夫奏上の筈でありまする>

最終的に東大でなく学習院になった経緯などは拝謁記には書かれていない。南原氏が1951年12月まで東大総長を務めたので、それが大きかったのかもしれない。だが、この日の記述には天皇の反応は何もない。

昭和天皇にはこんな大学観もあった。1949年12月9日、内親王の結婚相手に関連して田島氏が「学歴」を語ったところ、学歴と人物は関係ないという考えを、生物という自身の研究分野の具体的人物を念頭に語っている。

<大学を出てもいゝといへぬ人物もあるし大学を出ぬもいゝ人物もある。(略)名和昆虫所の名和も小学校だけかと思ふ。要は学校ではないとの仰せ故、陛下の御言葉は御尤も故、拝承す>

昭和天皇は1921年から6カ月、ヨーロッパ各地を訪問している。その体験から「洋行=帝王教育」と思っていた。皇太子さまは1952年4月、学習院大学政経学部に進み、11月に立太子礼と成年式、洋行は1953年3月から10月まで。ヨーロッパ各国とアメリカ、カナダを訪問した。

「国民に批難される余地のある事は控えてほしい」

ところで『昭和天皇拝謁記』で「洋行」と同じくらい話題になっているのが、「軽井沢」だ。皇太子さまは毎夏を軽井沢で過ごし、そこがすごく好きだった。

<東宮ちやんの軽井沢は矢張り余程気に入つたらしく、昨日も珍しい事だが軽井沢の話をあとからあとから話してた。義宮さんはそういふ事をするが、東宮ちやんとしては珍しい。馬とテニスと丈けなら那須でもと私がいつたが、どうも軽井沢の空気全体が余程気に入つたらしい>

1950年9月4日の記述だ。義宮さん(現在の常陸宮さま)に比べ、東宮ちやんはあまり話してくれない。そういう悩みを何度か田島氏に語っているから、皇太子さまの軽井沢話がとてもうれしかったに違いない。が、同時にこんな心配もしている。

<東宮ちやんの軽井沢、乗鞍等、宿屋など独占して皆が困るといふ事はないか。私の杞憂にすぎないならばよいが、若しそうでないならば、私は、教育上の見地からよろしい事でも、今のやうな点に批難の余地ある事は少し控へて貰いたいと思ふとの仰せ>(1950年8月10日)

この夏、皇太子さまは乗鞍岳に登り、山小屋に1泊している。そのために国民が「泊まれない」といった事態を招くならば、それが皇太子教育のためになっても控えたほうがいい。そういう考えを昭和天皇が伝えた。田島氏は、軽井沢には皇太子さまが宿泊したプリンスホテル以外にも宿が多いので心配はない、山小屋は少ないので調べると答えた。そして同日、こうも記す。