融資を導いた抜群の「人間好き」

<strong>朝田照男</strong>●あさだ・てるお<br>1948年、東京都生まれ。72年慶應義塾大学法学部卒業、丸紅入社。入社以来、ほぼ一貫して経理・財務畑を歩む。2002年執行役員財務部長、04年常務、06年専務、08年より現職。
丸紅社長 朝田照男●あさだ・てるお
1948年、東京都生まれ。72年慶應義塾大学法学部卒業、丸紅入社。入社以来、ほぼ一貫して経理・財務畑を歩む。2002年執行役員財務部長、04年常務、06年専務、08年より現職。

人生を、大きな観点に立ち、自由な発想で自在に生きることを説いた『荘子』。この中国の古典に、「以天属者、迫窮禍患害相収也」(天を以て属する者は、窮禍患害に迫って相収む)という言葉がある。

「天を以て属する者」とは、何も図らなくても、天命のように結ばれ合う同士のことだ。荘子の言葉は「深い信頼関係で結ばれた同士は、相手が行き詰まったり、災いに見舞われたりすれば、それを助けてますます固く結ばれる」との意味になる。ちなみに、荘子は、この言葉の前に、「以利合者、迫窮禍患害相棄也」と書き、利害で結ばれた同士は、行き詰まったり、災いに見舞われたりすると、あっさり相手を見捨ててしまう、とも指摘した。

朝田流の強みは、「以利合」ではなく、「以天属」のような人間関係を、いくつも培ってきたことだ。

1997年7月、アジア通貨危機が勃発する。巨大な波が日本にも及び、金融危機へ突入。金融機関のみならず、巨額の対外債務があり、海外に大きな投資案件を抱える総合商社も直撃された。資金繰りが一気に苦しくなる。衝撃の大きさは、「リーマンショック」以上だった。

そのとき、本社の財務部にいた。48歳。1年余り前にロンドンから帰国し、古巣で新たな金融事業を模索していた。株価が暴落し、銀行も商社も、経営危機までささやかれる。丸紅も、資金の確保に走った。だが、自らを守ることに必死な金融機関は、融資にブレーキをかけた。翌年4月、財務部副部長となり、生き残りをかけた任務を託される。

メーンバンクだった富士銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)や三菱東京銀行(現・三菱UFJフィナンシャル・グループ)などを、何度も回った。だが、銀行の姿勢は硬い。でも、引き下がるわけにはいかない。最後に、扉を開く力となったのが、入社以来、ずっと大事にしてきた「人間関係」だった。富士でも三菱東京でも、互いに腹を割った仕事を重ねてきた商社担当者が、銀行内を説得してくれたのだ。住友信託銀行も、同じように応じてくれた。丸紅は、危機を乗り越える。

社長に就任したとき、当時の三菱東京の商社担当者が副頭取になっていて、丸紅の社内報にアジア危機当時のことを振り返りながら祝辞を書いてくれた。読み返せば、2人は、まさに「以天属者」だな、と思う。

「人間関係の重視」は、相手の消息をつかむことから始まる。実は、財務部の資金1課にいた20代のころから、取引銀行などの人事情報に抜群に詳しいことに、定評があった。銀行の幹部から「今度、うちは、どんな人事になるの? 教えてよ」と尋ねられるほどだった。誰それは何年にどこの大学を出て、どの部門に入り、どの部署と部署を経験してきた――そんなデータを、ほとんどの幹部について、頭に入れていた。

持って生まれた「人間好き」が、そのベースにある。

1948年10月、東京・荻窪で生まれた。父の勤務の関係で1年ほど神戸に住んだほかは、ずっと東京の世田谷や新宿で育つ。小学校のころ、新宿駅の西口には、まだ闇市があった。親に連れられて行くと、粗末なテントが並び、様々な品を売っていた。思えば、そんな混乱期に、教育者たちは「日本を復興させるために」と、子どもたちの教育に信念を持って取り組んでいた。自分が子どもたちを育てたときと比べると、全く違う。最大の敬意を払いたい。

でも、当時はよかった。いまのように、小学生のときから学習塾に通い、自分の時間もないようなことはない。小学校の仲間全員が、そのまま同じ中学へ進み、のびのびと遊んだ。そうしたことが、素直に「人間好き」につながったのだろう。

72年に慶大を出て丸紅飯田(現・丸紅)に就職。当時、丸紅は三菱商事、三井物産とともに「三M」と呼ばれ、両社との規模の差は、いまよりずっと小さかった。「がんばれば、三菱も抜けるかもしれない」と思ったが、4年目に表面化したロッキード事件に会社の首脳陣が巻き込まれ、夢は無念にも頓挫する。

機械か鉄鋼の貿易部門を希望したが、資金一課に配属された。仕事は国内での資金調達と輸出入の外国為替。貿易とは直接からまない事務作業で、がっかりする。でも、「メード・イン・ジャパン」が世界進出を拡大していた時代。財務部門も海外駐在を強化中で、先輩が次々に出て行って、ついには自分と課長代理の間に誰もいなくなる。お陰で、どんどん仕事をもらえた。ときに、課長代理から「お前、課長じゃないんだぜ」と笑われるほど、背伸びもできた。銀行幹部の経歴に詳しくなれたのも、そんな環境だったからだ。