市長選出馬と当選は、母の人生の集大成

なぜ、母がそんなふうに考えるようになったのか、それは私にもわかりません。母・幸子は、1949年、長野県松本市に生まれました。3人きょうだいの末っ子で、姉と兄がいます。長野県で製麺所を営んでいた祖父母は、「子どもに残せる唯一の財産は教育だ」と言って、子ども全員を四年制大学に進学させたほど。母の両親と長女は戦時中、満州に渡っていて、命からがら日本に戻ってきたそうですから、何かしら戦争の影響があるのかもしれません。

(上)1975年。「カメラ事始め」と、この頃から母がカメラで撮影するようになった。(中)1976年。仕事が多忙な母のために、長野県から祖母が応援に。日曜出勤の朝の一コマ。(下)1980年。父母31歳、りんさん6歳。

母は東京の大学へ進み、そこで1学年上の父・秋実と出会い、結婚。2人が25歳のときに私が生まれました。私は1人っ子です。父も三鷹市役所に勤める公務員でしたが、私が7歳のとき、某電機メーカーへ転職。海外転勤を命じられそうになったのをきっかけに再び退職。その後、私が大学生のときに起業したのですが、私の第1子出産時、60歳で「おじいちゃん業に専念する」と言って、事業を譲り、引退。でも、3年後にまた起業。そんな破天荒な父は、「人生は1度だけ、精いっぱい生き抜いたほうがいい」とよく言っていました。

一方、母は多摩市役所で順調にキャリアを積み、福祉課の係長時代はボランティアセンターを設立し、初代所長に。企画部副参事時代は市民参加のコミュニティセンターを立ち上げ、総務部次長、市民部長と、女性としては比較的早い出世を果たしたようです。

2002年、当時の市長が収賄容疑で逮捕され、選挙が行われることに。そうしたら、市民の方々が大勢家に駆けつけてきて、母に「ぜひ、選挙に出てほしい!」と言ったそう。私は結婚して家を出ていたので、父の電話でそのことを知りました。驚きましたが、それは母が30年間市民に寄り添い、活動してきたことの集大成ですから、反対はできません。最初の選挙は、私は仕事が忙しくて手伝うことはできませんでしたが、候補者5人中、圧倒的多数で当選。母は長くボランティア活動をしてきたので、顔見知りの市民の数が非常に多い。そのおかげで当選できたのかもしれませんね。

4年後、2期目の選挙時、私は国連職員としてフィリピンへ渡る前だったので、選挙事務所で母を手伝うことができました。応援していただいていた党の関係者の皆さんにも、おにぎりを握ってくださる市民にも、選対委員の人にも、誰に対しても分け隔てなく接している母を見て、「母らしいな」と思うと同時に、たくさんの人からの応援の気持ちに応えるかのように、母が周りにとても気を遣っている姿が印象的だったのを、今でも鮮明に覚えています。